負けが決まったゲーム
負けが決まったような時間帯に、笛が鳴るまで戦わないといけない時がある。でも、それこそ、そういう時こそ『まさに人生じゃないか』と思うのだ。
どんな気持ちでボールを追い、諦めたくなる自分を鼓舞できるのか、可能性がなくなっても、最後まで力を出し切れるのか、懸命な練習や人の思いを背負う重さがわっているのか、これからの先の人生に思いを馳せることができているのか。それがわかっている選手は、どんな局面に立たされても顔つきが違う。
正月恒例の高校サッカーを観て、スポーツの勝ち負けの厳しさ以上に、ことさら感銘を受けたのは、負けが決まったような試合のある選手の表情だった。
それはたまたま酒場のテレビに流れた試合だった。しかし、画面を睨みながら立ち飲みの喧騒の中『それこそ人生じゃないか』と何度も呟やかされたのだ。
酒のつまみの観戦が一変したのは、大差のついた後半のアディショナルタイム、ある選手の顔が大写しされた時だった。
表情に敗色が微塵も漂わない、まるでまだゲームが中盤であるかのようにプレーしている。
当たり前だが自分の置かれている状況が理解できないはずはない。だからこそ、この選手が精神的に乗り越えて来てたものを思わずにいられなかった。
『スポーツはここ(頭)とここ(心)でやって、人生に対する無垢な心構えを鍛えるもんなんや』と知らず酔っ払いは内心で叫んでいた。『こことここ』、酩酊している分だけ何回も。
皆が見上げる華ある才能は美しい。だが、プロフェッショナルな世界を目指すことだけが成功ではないと、こういう選手に出会うたびに思う。
“〇〇界の底上げ”などと言われる。しかし、何事においても、例えば勉強でも仕事でも、全てがヒエラルキーの頂点のための底辺なら、きっと大切なものの底が抜け落ちると訝らずにはおれない。
何かを指導する立場なら、ヒエラルキーを強制するような目線だけではなく、一人の人間の成長を側面から支える大切さを忘れてはいけないと自戒させられた。
…まだ笛は鳴らない。力の限りを尽くす選手の一挙手一投足から目をはなすことができない。