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おもいを巡らす向こう側(1/2)
仕事は継ぐものがなく、何代か前に絶えているが、家系には宮大工の血筋がある。
祖先の名が京都市の中心にある仏閣の大門に棟梁として刻まれることや、槍鉋(やりかんな)など古式の大工道具が本家にあるという話は、その真偽を確かめないが誇りである。
すぐれた宮大工は、切り出された木と向き合うとき、その木の育った山の土質を知るそうだ。そして、年輪や節目という生命の脈動の痕跡を追い、どう切り出し加工し組み上げるかを“おもい巡らし”いざ釿(ちょうな)を振りおろして、鉋を木はだにすべらせるという。
宮大工の仕事はこの“おもい巡らし”にゆだねられ、建舞われた社寺のゆるぎなき千年にひたすら向かっていくのだろう。奈良に育ち京都に住まうので、その証左をみるのは容易いことだ。
人(の精神)は宮大工の“おもい巡らし”を孕むものである。それはAIの生成技術の及ばないところにある。アルゴリズムが宮大工の“おもい巡らし”に相当することはない。“おもい巡らし”は抽象化された概念(言葉・記号)のおよばない域にある。なぜか?
人に“器”の一字があてられることがある。確かにそうで、人(の精神)は器と思う。そして器は空で可視化できないまるで音のような“思い巡らし”を共鳴する、共鳴が意識となって立ちのぼる。前提は器が空であること(“ない”)が当体であるということだ。
AIは“ある”を前提に学習機能を装置するから、それはどのように複雑に解答を編み上げようと、パターンのレールを大容量の電力を消費しながら爆走する列車であり、抽象概念(言葉・記号)の及ばない“向こう側”の駅には到達しない。
人が、事象を抽象化したりそれを標準化するにとどまらず、“おもい巡らし”により、言葉が言葉になる以前の“向こう側”の淵にふれることができるのは、想像のはじまりが“ない”を前提とするからだと推察する。
人にゆだねられた無形の“おもい巡らし”は(それはこの生き物の膂力のようなものとして)眼前の事象を受容する、空っぽのまま受け取ることができる。人は空であるからこそ人であると言いたい。
実は三島由紀夫の言葉はもっとも均斉のとれた美しい“ノイズ”ではないか、というのがこの問いの真ん中にあるので後に続けてみたいと思う。
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