円相図(1/4)
心月孤円にして光万象を呑む
光境(さかい)を照らすにあらず
境また存するにあらず
光境ともに亡(ぼう)ず
またこれ何物ぞ
『正法眼蔵』の言葉だが、道元の思想に馴染んで知ったわけではない、きっかけは哲学者の西田幾多郎だった。
『円相図』とよばれる書があり、それは西田の哲学を象徴すると言われ、その図に添えてあるのがこの言葉だった。
少し考えてみたいと思った。しかし、考えれば考えるほどわからなくなった。腑に落ちる解釈ができない。
何度かわかったような気になったが挫かれ、嫌になり、気を取り直してしがみついては弾き返された。
だが、素通りできない何かがある。だからここで精一杯あがいてみたい。
1.『心月孤円にして』
東洋思想家中村元は「空観」の歴史的起源とその成立を論じ、およそ次のようなことを言っている。
鏡は実体を映すのであり、実体が鏡の中にあるのではない。にもかかわらず、人は鏡の中の像を、意識が寄せ集め仮構した像を、固定化された実体(客観的状態)と見なしてしまう。
『心月』とは、鏡つまり心の中に実体があると錯覚しないこと、そして妄執に囚われ像を歪める“曇り”を持たないことをいうのではないだろうか。
《月》は“ありのまま”を映す鏡のような心の有様を比喩し、利己的な世界像からほどかれた《心》を示すのかもしれない。
そして『孤円』とは、欠けるところのない美しい一円であり、月に見立てた心の様態で、完結したありのままを受け入れ《始まりと終わりのない形》として表現されるのではなかろうか。
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句は『光万象を呑む』に続くが、それは空(くう)をどう手掛かりとするかが大切になるかもしれない。引き続き精一杯考えたい。