“苦”とはなにか
『最後の審判』がくだされる。人間は降臨した天使の裁きを受け、天国か地獄、または神の許しを得るまで罪をつぐない続ける煉獄(れんごく)に送られる。これはキリスト教の教え。
『デタッチメント(遊離の態度)』は、どことなく煉獄の苦しみに通じるのではないだろうか。
『全体性(統制のとれた中心)から遊離すれば、その外縁部に煉獄が待つ』これはヤマ勘だ。“苦”とは何かと思い働いた直感にすぎない。根拠などない。
ポストモダン思想の“脱構築”には人間的・社会的課題を負う側面がある。全ての二項対立をいったん留めおき、揺さぶりをかけとらえなおす。
いま統制の取れた社会、管理社会の只中にいる自覚はある。管理社会はルサンティマン(妬み)を要請し、大衆を煽り嗜好と思考を均質化している。
テレビを中心としたマスコミは日々道徳的な「正しさ」を売り、人々の感情を刺激し儲けに変えている。情報化社会の言葉は毒に満ち、そして強力に中心に向かって人心を引きずっていく。
管理社会の膠着(こうちゃく)した価値観は“苦”を根源としないだろうか。
そこに揺さぶりをかけ、新たに『他者』を発見し『世界』を思考し直してみたい。
「精神/肉体」「虚/実」「本質/非本質」「正義/悪」「支配/非支配」「秩序/無秩序」「自然/人為」「主観/客観」etc…
あらゆる二項対立を保留し、良くも悪くも『世界』と『他者』に新しい地平を眺めたい。
そもそも「ある(存在する)」ことは流動的で、それは『あること』(to be)ではなく『起きる』こと(to do)であり、「わたし」は生成する出来事の関係の網の目の“結び目”のひとつにすぎない。
すべての出来事が生成し変化する途上であるなら、中心化し膠着する価値が意図的・便宜的なものにみえる。
天から舞い降りた「価値」に賦与された二者択一から、そして求心的な全体性(管理社会)からデタッチ(遊離)する。
天使は雨のように天から無数に舞いおりる。苦しみは降りそそぐ雨のように一滴一滴の雨粒に分別してとらえることができない。
『雨が降るね』と表現できても、『昨日より何粒多く降ったね』とは言えない。わたしたちの目はそれらを微細にとらえることはない。
『苦』もまた、分別可能な実体としてはとらえようもなく、相互に作用する諸関係をあらわす式の“変数”としてあらわすしかないのかもしれない。