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源信(六)

「往生要集」の序文は、源信の肉声のような語り口ではじまっている。まず開口一番「そもそも極楽に往生するための教行は、濁りはてたこの末の世の目とも足ともなるものである‥‥」とそう述べており、この第一声には、末法思想が流布していた平安時代の社会に対する厳しい現状認識が感じられる。そしてそんな現世批判を通して、目とも足ともなる、つまり前を向いて進む道標として、源信は浄土を希求する仏の教えを抽出し編集した。また現代よりも全てのインフラが脆弱で、社会構造も歪な日常において、窮乏した生活を余儀なくされる大多数の民衆へ、源信の目はやはり注がれていたようだ。

 前回、このnoteで「往生要集」には、死を迎える側とそれを看取る側の心得も著述されていること、またそれが現代の終末医療や緩和ケアにも通じていることを書いた。これは宗教者としての源信が、富める者よりも貧しき者の死に心を留め置いていたからであろう。そして特権階級である支配層の人々が、生を豪勢に謳歌することであたかも死を忘れているのとは裏腹に、被支配層の人々の方が身近な隣人の死に接する機会も多いがゆえに、死を主体的に自覚していた可能性は高い。しかしだからこそ、残される側として肉親の死に接した時、また自らが死を迎えるに際し残す側との別離における痛切さは真に迫っていたのではないか。

 たとえば平安時代に隆盛を極めた藤原氏の頂点にいた藤原道長の臨終などは、かなり自己本位で身勝手な極楽往生の解釈によるものだ。要は死を主体的に自覚していたとは言い難い。道長が生前の源信に敬意を払っていたのは事実だが、このnoteにも書いたように臨終において、盛大な儀式で大人数の僧侶に極楽往生を祈願させている辺り、彼の往生際は悪かった。恐らく輪廻からの解脱、つまり浄土への往生を道長は確信できなかったのだ。それゆえ、権力者の一挙手一投足で盛大な儀式を敢行せざるを得なかった。そしてこの組織的命令系統による大仰な行事は「往生要集」に書かれた看取りの姿とは相容れない。

「往生要集」では、看取りの為の病室のようは空間は必要だが、そこが豪華で広大である必要はない。肝心なのは看病をする人が、臨終に際して当事者の病人が死を受容し、浄土への往生を全うできるようサポートすることである。そしてこれは看取られる側と看取る側に共有できる信仰心は不可欠だが、看取られる側が命令を下す権力者で、看取る側が一方的にその命令に従っても、成就できるものではない。看取る側は物理的な介護や看病をすることになるが、それ以上に看取られる側が浄土への往生を確信できる時が迎えれるよう導くことが大切になる。

 ここで重要になってくるのは、看取られる側が抱く浄土への想像力と共感力であろう。そして仏教の善知識や教養に乏しい民衆にとっては、シンプルに念仏を唱える称名念仏のルートからの浄土行きが相応しいといえる。この為、藤原道長のような特権階級の人々が、観想念仏よりも称名念仏に走ったのは甚だ疑問が湧くところだ。道長は生前に法成寺を建立しており、平安時代の摂関期でも最大規模のこの寺院は、極楽浄土のイメージも被るよう設計されている。そして摂関家の藤原氏の人々は、道長以降も平等院に代表される浄土信仰が託されたような寺院を多く創建していながら、当の本人たちが観想念仏を極めた話は殆ど聞かない。

 これは恐らく極楽浄土への憧れを、贅を尽くした寺院を創建することで具現化し、極楽浄土に往生できる特権を得たような満足感に浸っていたのではないか。残念ながらこうした人々は、教養の有無に関わらず、そもそもイメージトレーニングが貧困なのだ。実際に寺院の建設現場で手や頭を使って、無から有を創造する人々と違い、頭の中が空よりも広いことを知らない。そしてそれを知っているのは、本当のところ彼ら支配階級に支配されている民衆や民衆に近い次元にいる人々であろう。

「往生要集」における浄土は、地獄とは真逆の概念である。地獄はそこへ転生した者が待ったなしで遭遇し体験する場であったが、浄土とはイメージの向こうにある場だ。つまり観想念仏においては、イメージトレーニングを重ねて、仏の相好や華座を思い浮かべ、また光明に満ちた荘厳に輝く風景などを思い浮かべる。こうした様々な想像力を発揮し、その異次元の場に居るかの如き境地に至ってこそ、極楽浄土へと旅立てる。しかしそこは極楽とはいっても欲望とは無縁なのだ。そして全ての人災や天災とも無縁な為、当然のこと酷暑や酷寒など有り得ない。つまり今の気候変動や戦争など起こりようがない世界だ。そのような理想郷である。

 観想念仏ではなく称名念仏においては、こうしたイメージトレーニングは必要なく、臨終において看取られる側は、看取る側のイメージトレーニングをマスターした仏教者の、浄土へ旅立てるという言葉を信じ、念仏を唱えるだけで良い。この臨終行儀は源信以降も、日本社会において大なり小なり影響を受けた社会福祉的な施設において、現代までも受け継がれていく。

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