源信(一)
前回、紫式部について書いた。今回noteに書かせていただくのは、彼女と同じ平安時代を生きた僧侶、源信である。ただ源信は紫式部よりもずっと年上者であり、あの「源氏物語」が完成した頃には、もう古希に近い老人であったと思われる。そして興味深いのは「源氏物語」において、この源信をモデルにした登場人物が第三部に現れることだ。それは「横川の僧都」という僧侶で、彼の人物造形には紫式部の仏教観が如実に反映されている。そして恐らく彼女の仏教観は、源信から多くの影響を受けていた。阿弥陀仏に救済を求める浄土思想は、「往生要集」を含めた源信の著作から紫式部が感化されたと考えてほぼ間違いない。
源信は天台宗の僧侶で幼少期に父親と死別し、その後に母親の薦めで仏門に入っている。この母親がとても信心深い人で、しかも仏教という、キリスト教やイスラム教と同様に貧富の差のみならず、国家も民族も人種も分け隔てなく受容する世界宗教の本質をよく理解できていた。要は彼女の信仰心は純真無垢で揺らぐことがなかったといえる。それゆえ息子に衆生を救う仏の道に入ることを推奨したくなるほど、当時の日本社会は荒廃の極みにあったのではないか。
事実、日本史において400年以上も続いた平安時代は、桓武天皇が平安遷都して以降、政府は律令制を再構築しようとしたが、私有地たる荘園の広がりを収集できずに公地公民制が崩れだしたことから失敗し、重税で搾取する支配のシステムが中央ばかりか地方にも波及していった。これでは以前から律令制の租庸調の重税で散々に苦しめられていた国民は、中央と地方の両方から搾取されてさらなる窮状に陥ったようなものである。またこの転換期は、貧富の格差もエスカレートしたことがその大きな特徴だ。
そして源信や紫式部が生きていた頃は、荘園の経営を発展させた藤原氏が台頭し国政を掌握した摂関政治の時期であり、富み栄えたのは都の皇族や貴族を含めた朝廷と寺社、天皇の外戚の藤原氏に癒着した日本全国の地方長官の受領であろう。当然こんな社会では、民衆の日常はその悲惨さが半端ではなかったと思われる。多分、源信と彼の母親はこの過酷な現実を真面目に直視していたはずだ。特に世界宗教たる仏教の本来の物差しでそんな現状を測るとすれば、これでは話にならない!まるでダメだ!である。特に仏教組織までもが重税の恩恵を受けていたのだから呆れるしかない。
しかし日本に仏教が伝来して以降、仏教という宗教は国家の権威や権力を補強する要素が非常に強かった。貴族ばかりではなく、天皇や上皇さえもが出家をして法皇になってしまう。これを神仏習合という言葉で解釈するのは簡単だが、やはりその最大の要因は、権威や権力の側にいる支配者たちが抱く来世への恐怖心であろう。つまり彼らは一様に死後の世界を恐れていた。これは古今東西、共通する現象かと思われる。その事例として平安時代で典型的なのは藤原道長の最期だ。道長の死因は癌と糖尿病の合併症らしく、最晩年の病苦は相当にきついものだったようで、国政の頂点に立ち我が世の春を謳歌した道長も、御仏の慈悲に縋らざるを得ない状態になった。
藤原道長は自らが建立した豪勢な法成寺で、大人数の僧侶に極楽浄土の祈願をさせる儀式を敢行して臨終を迎えているが、源信は既にその10年近く前に他界しており、この儀式には不在であった。しかしながら仮に源信が生きていたとしても、こんな盛大この上ない儀式には参加しなかったのではないか。またそう想定できる理由も、生前の彼の行動から見出せる。源信と藤原道長のエピソードで有名なのは、左大臣の頃の道長から権少僧都の僧位を与えられていることだが、源信はたった1年でこれを辞めてしまったからだ。つまり源信という人物は、大衆を扇動したり武装蜂起をするような過激さはなくとも、筋の通った反権威及び反権力の仏教者であった。
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