源信(三)
源信が43歳の頃に完成させた「往生要集」の凄いところは、私たち現代人も戦慄するほどに、そこで描かれている地獄のイメージが生々しいことだ。しかも序文をほんの少し過ぎた辺りから、地獄の解説のオンパレード状態になっていく。これは「往生要集」や、その著者たる源信を知らない人でさえ地獄の存在を再認識するであろう。実際に「往生要集」を読むと、その凄惨な地獄の光景は真に恐ろし過ぎるのだが、それでも私たちの地獄に対する先入観を裏切る内容ではない。むしろその先入観は極限までパワーアップされていく印象を受ける。
ここで明らかなのは、古来から人間社会が死後の世界にも大きな意味を持たせてきたことだ。そして親から子へ、子から孫へという家庭教育において、単純に悪いことをすると死んでから地獄に落ちてしまうという話を聞かされる機会は、大半の人が経験しているのではないか。多分これは古今東西に共通の社会現象なのかもしれない。たとえば仏教と同様に世界宗教のキリスト教やイスラム教では、最後の審判という形で、生前の行動に対する神の裁きが下される。要はそこで天国行きか地獄行きかが決まるわけだ。つまりキリスト教圏やイスラム教圏の人々とも、仏教の影響下にある社会の人々は、悪いことをすると地獄に落ちるという認識を共有できている。
幼少期から宗教的な倫理観をベースにしたこの認識が植え付けられている以上、当然のこと「往生要集」のような書物を読んだ場合、そこで遭遇する巨大な地獄のリアリティーは半端なものではなくなる。ここまで考えると、地獄の概念は社会生活において、人が悪の道へ走ることを防ぐ安全弁として機能していることに気付く。そして源信はそれを熟知していた。それゆえ「往生要集」に書かれた言葉から、読者がイメージできる地獄の映像は脳裏を焼き尽くすほどに壮絶である。また斯様に壮絶であればあるほど、悪を寄せ付けない、また悪を避ける道へと、人は真摯に進まざるを得ない。恐らく源信の本音は、恐い地獄を提示して、人間の良心を守ることではなかったか。
ただ「往生要集」は源信のオリジナルの発想や知識が詰まった書ではない。これは様々な仏典を含めた資料から、彼自身が取捨選択して編集したものだ。しかしだからこそ真に迫っている。要は仏に仕える立ち位置から、人間社会の深刻な問題点を確りと見据えて執筆されたことが容易に想像できるからだ。たとえばその構成において、ほぼ冒頭の段階から地獄が登場するのは、読者へのインパクトを十全に考慮したからであろうし、平安時代に文字を読んで書物の内容を把握できるのは、支配階級の人々であった。つまり源信は、世の中を動かせる為政者へ向けて、こんな民衆を苦しめる圧政を敷いていたら地獄へ落ちるぞと、そう警告を発しているようだ。
「往生要集」に表現されている地獄は8種類存在する。日本人ならどこかで耳にしたことがある八大地獄がそれだ。レベルが低い方から順に等活地獄、黒縄地獄、衆合地獄、叫喚地獄、大叫喚地獄、焦熱地獄、大焦熱地獄、阿鼻地獄の計8つである。そして最高レベルの阿鼻地獄に比べれば、それ以外の7つの地獄は夢のような幸福に思えるほどだと述べられているが、とんでもない話で、7つの地獄のそのどれもが想像を絶する大恐慌の苦界である。しかも最低レベルの等活地獄へ落ちる必須条件は、生前の殺生だ。なおこの殺生とは、殺人だけではなく全ての生命に適応されるので、虫を殺した人はその過去があるだけで地獄行きは、もう既に決定している。
恐らくこの「往生要集」の地獄に関する著述に触れた瞬間、当時の支配階級の人々は畏れ慄き震え上がったはずだ。しかしながら「往生要集」は絶望だけではなく、希望の書でもある。なぜなら極楽浄土へ往生することが最大のテーマであり、その為には反省と感謝の念を持って、地獄行きとなる所業を改めよと警鐘しているように思えるからだ。次回は描かれたこの地獄絵図を掘り下げながら、源信の真意や、彼の仏教に対する深遠な解釈も考えてみたい。
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