見出し画像

源信(四)

 前回、「往生要集」には八大地獄が存在することを述べた。そしてこの八大地獄を要する地獄道は仏教における六道という6種類の冥界の1つだ。その6種類とは天道、人道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道になる。勿論、地獄道とは最上層の天道とは逆に最下層に位置し、人はその死後、因果応報によりこの六道を輪廻転生する。
 
 この為、現世では人間であっても、生前の行いの影響で、来世は人間に生まれ変われる人道ではなく、最下層の地獄道に生まれ落ちる可能性は高い。なぜなら「往生要集」における解釈では、虫1匹を殺しても地獄行きが決まっているのだから。また仮に来世の居場所が現世と同じく人道であったとしても、人の世も苦労が多いことから、最上層の天道へ生まれ変わりたい人もそこそこいると思われる。なお地獄道は地底の奥深くに位置し、地下8階建てのビルのような構造になっており、それぞれの階層が八大地獄の1つに相当する。特筆すべきは地下8階の奈落の底にある阿鼻地獄が、その他の7つの地獄より図抜けて体積が大きいことだ。

 この世に自ら希望して地獄へ落ちたい人など皆無だと思われるが、残念ながら「往生要集」で確認できる地獄行きの条件は、ほぼ全ての人間に当てはまりそうである。それゆえ地獄の記述を読んだ人の大半は、絶望的な気分に陥るはずだ。端的に解説させて頂くと、まず八大地獄の中で最もレベルが低い等活地獄においては、殺生がその必須条件となる為、肉食の習慣があればもう地獄行きの切符を余裕で手にしている。つまり死後は地獄に転生と相成り、恐ろしい来世を罪人として生きていくしかない。

 そしてそうなった場合、新たな生を全うする舞台となる等活地獄の全貌だが、まずこの地獄に落ちた人間同士が獰猛に殺し合う。しかもお互いが相手の血肉を潰して骨しか残らないほど凄惨に闘う。これだけでも醜怪で悍ましい限りだが、無論そこは地獄ゆえ、その程度では済まない。罪人を様々な武器で徹底的に痛めつける獄卒の鬼たちが存在する。さらに罪人を裁く側にいるのは、人型の鬼だけではない。牛や馬や犬といった人間に使役されてきた動物や、鳥や鹿のように狩猟の対象とされる動物、それに人間社会から下賎な扱いを受け、最も生命を軽視されてきた虫たちまでもが罪人を裁く側に回る。彼らは武器を所持せずとも、身体の一部や全身が刀や剣や鎧に変化しており、鋼鉄製のロボットのようにパワーアップしている。

 裁かれる罪人の有様は、刀や剣で斬りつけられた挙句、肉を寸断し食材にされる屠殺の過程を想起させるほどに無惨だ。ここで等活地獄の等活の意味について述べておきたい。これは復元や蘇生の現象のことをいう。要は罪人が粉々に肉体を粉砕されて、もう原型を留めない状態になったとしても、涼しい風が吹いてきた途端、それを合図に魔法でもかけられたようにして、元の木阿弥の原型が復活してしまう。つまり破壊される以前の肉体に等しい状態で元通りになる。そして元通りになった理由は、無情にも再び地獄の責め苦を負う為だ。それゆえ五体満足の肉体が生々しく活きており、またしても極大化した拷問の攻撃が待っている。この繰り返しの恐怖こそ地獄の真骨頂だが、それがほぼ無限とも思える時間に渡って続く。なぜなら時間の範囲は人間界に換算すると、1兆6千億時間を軽く超えてしまうからだ。仮に人道の現世で人間が100歳の長寿を全うできたとしても864万時間ほどである。何という荒唐無稽な狂気の世界であろう。

 この地下1階に位置する等活地獄は八大地獄の中では、まだ序の口だといえる。なぜなら生前に犯した罪のリストが殺生に限られており、地獄道に滞在する時間も最短に設定されているのだ。ちなみに他の7つの地獄を罪状のリストに照合させて紹介すると、以下のように分類されている。

 地下2階の黒縄地獄のリストは、殺生と盗み。
 地下3階の衆合地獄のリストは、殺生と盗みと邪淫。
 地下4階の叫喚地獄のリストは、殺生と盗みと邪淫と飲酒。
 地下5階の大叫喚地獄のリストは、殺生と盗みと邪淫と飲酒と妄語。
 地下6階の焦熱地獄のリストは、殺生と盗みと邪淫と飲酒と妄語と邪見。
 地下7階の大焦熱地獄のリストは、殺生と盗みと邪淫と飲酒と妄語と邪見と強姦。
 地下8階の阿鼻地獄のリストは、殺生と盗みと邪淫と飲酒と妄語と邪見と強姦と搾取。

 地下の階層が1つ下がると、犯した罪も1つ増えていく構成になっているわけだが、この八大地獄には共通項も存在する。それは上記のように殺生が必須条件になっていることと、十六小地獄という本体を補強する16種類の小空間の地獄も付随していることである。これは罪状のリストによって落ちる地獄が決まったとしても、罪人の性格や資質やその所業に応じて16種類に区分けをし、地獄本体の大空間だけではなく、その本体と繋がった小空間でも裁きを加える必要性があるからだ。たとえば等活地獄の場合、肉食の為に殺生をした所業と、狩猟などで殺生を楽しんだ所業では、当然のこと殺生を楽しんだ罪人の裁きが重く、小地獄に回されても獄卒たちの攻撃は激しく厳しいものになる。

「往生要集」に著された地獄道における残酷な描写には、読者は背筋が凍るほど恐れ慄く他ないが、ここまで徹底しているのには深い意味もあるような気がする。それは八大地獄の地下8階の奈落の底までの落下に値する罪人とは、あの罪状のリストから判断する限り、支配される側ではなく支配する側に属する人々であろう。そして彼らは常々他人の批判などには耳を貸さず、悪行の限りを尽くしてさえ、屁理屈や論理武装で自己正当化を試みて、開き直れる図太さを有する。古今東西、侵略戦争を起こす為政者などはその典型だ。その意味では、この地獄道の解説は彼らがこの情報を遮断せずに入手した場合、たとえ怖いもの見たさではあったとしても、誰もが心胆に痛撃を浴びたと思われる。だとすれば仏教者たる源信の信仰心はぶれていない。

 そして「往生要集」が、源信のオリジナルではなく、彼が編集した著作である以上、数ある仏典や経典等の資料を厳選する編集作業でしか辿り着けない境地を、予め見据えていた可能性もある。それは詰まるところ、この地獄の光景が、来世ではなく現世においてさえ、既に存在している悲しい現実を、読者に確りと認識させたかったのだ。地震や台風が襲来し、飢餓の大地で疫病が蔓延する惨状や、そのような天災がない日常でも、武装した里長が貧民から税を暴力で取り立てる暴虐は、地獄道とほぼ違和感のない世界だ。また人間と同じように心を持ち痛みも感じる他の生物たちが、人間に虐げられ犠牲にもなってしまう現状に対するアンチテーゼとして、地獄道では動物たちが人を裁く側に立っているのかもしれない。つまり「往生要集」で描かれた来世の地獄道は、現世の人道と実は地続きで繋がっている。

 ここまで踏まえると、やはり隠棲して仏道を探究し続けた源信の真意は、現世において権威や権力に都合よく利用されてしまう仏の教えを正すことにあったのではないか。そしてその為には、この「往生要集」の序文において「厭離穢土極楽浄土」と述べられているように、穢れたこの世を厭い離れ理想の世界を求める心を持つ必要があるのだ。つまり穢れた酷い世を、平安時代の支配階級に流布した末法思想の解釈で世も末だから仕方ないと、安易に現状肯定するなど、源信にとっては論外であろう。またそもそも利権や汚職で贅沢を享受できている人々にとっては、穢れた酷い世の実態は、よほど想像力を働かせなければ実感も把握できないのだ。これは現代にも当て嵌まる不条理である。しかし穢れた酷い世という現状認識があってこそ、それを善処する道も開かれてくる。

 またこの現状認識が無ければ、恐らく浄土への往生も不可能であろう。浄土とは幸福の消えない、究極の平和が実現している世界であるが、私たち現代人がそのような理想状態を健全に想像できているのかどうかは、大いに疑問が湧くところである。現代も源信の生きた平安時代と同様、人類に特有の諸問題は山積しているが、軍事力によって国が守られている、或いは戦争によって平和が保たれているという考え方には、明らかに穢れた酷い世という現状認識が欠けている。また相当にグロテスクな思考でもあろう。次回は今回よりも現代の世界や社会を絡めて「往生要集」に著された地獄と浄土について考えてみたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?