ドストエフスキーの名言にスキ♥️
『人間には、幸福のほかにそれと全く同じ分量の不幸が、つねに必要なものである』
『え、お金が腐るほどあったら幸せじゃないの?』とか、
『え、好きな恋人と結婚してずっと暮らしていけたら幸せじゃないの?』
という疑問の声が聞こえてきそうです。
まず、『お金=幸福』の式が成り立たないことは、多くの人が理解できると思います。
私たち一般人は、お金を稼ぐことに四苦八苦しているため、お金がたくさんあれば、きつい仕事をしなくてもいい、とか仕事をせずに遊んでくらしていける、と想像しがちになります。
しかし、世の中にはお金もちの家に生まれても、身体が弱く病院で寝たきりの人もいますし、裕福で甘やかされて育ったために勉強もスポーツもせず親の金を食い潰す人もいます。
いくらお金があっても健康でなくては使うこともできず、『お金なんかいらないから健康な身体が欲しい』と思うでしょう。
後者でも、いくら健康でお金があったとしても、自分で築いたお金ではないため、虚無の念にとらわれると思います。
通常、一代で莫大な財を築いた人は、人並みはずれた努力をしていて、その財を築くにあたり取引先のお客様や従業員の熱い信頼を得ています。
要するに、そのお金を稼ぐために多くの人とからみ、苦労をしながら稼いでいるから、そのお金に対しての見る目と思いが、宝くじやギャンブルなどで得た金と比べると全く違うのです。
つまり、お金は幸福を得るための手段や道具であって、ゴールでもなければ目的でもないのです。
アメリカはキリスト教の国だから、お金持ちの人が亡くなる前に財産を生前贈与する方が多いようです。良い行いをしたら天国に行ける、という宗教的思想です。
では、お金ではなく『愛こそが幸福の証だ』と思う人は多いでしょう。
愛にもさまざまな形があるのはご存知の通りです。
自分の思い描く理想の愛など、夢のまた夢です。何故なら、こちらの90の愛情に対して同じ分量の愛情をかけてくれる恋人がどれだけいるでしょうか。
逆に相手が100の愛情をかけてくれると、同じ愛情をかけるのも苦痛に覚えてくる人もいるでしょう。
愛もお金と同様にたくさんもっていれば、幸福ではなさそうです。
すると、ほどよい適量がありそうな気がしてきます。
私の勤める運送会社でも、『適量』について不満を言う人が度々います。
『荷物が多いのは給料が上がるから嬉しいけど、多すぎると肉体的にきついし、睡眠不足になる』といったものです。
美味しいものでも、食べすぎると見るのも嫌になります。
人間の性質上、満足するためには何事にも、『適量』があるのです。
お金、愛情、荷物、食べ物など、人間を満足させる客体は、その主観によって分量は異なるにせよ、適量によって幸福を感じるか、感じないかが決まってくるように思います。
と言うことはドストエフスキーの名言
『人間には幸福のほかに、それと全く同じ分量の不幸が常に必要である』
の解釈はお金にしろ、愛情にしろ、それを手に入れるまでに費やした苦労と時間なくして幸福はあり得ない、ということになります。
単純に考えると、お金もちだろうと、理想の恋人がいようと、それらが永遠に続くことはないし、きついこと、楽しくないことが無いことには、本当の喜びなど得られない、ということだと思います。
食べ物にしても、仮に美味しい物しか食べることができなかったら、何が美味しくて、何が不味いのかすらわかりません。
時おり、まずい物を口にするから美味しい物がひきたつのです。
つまり、幸福を得るには、良いものに悪いスパイスをかけることで、上手く調和して幸福の果実になるのはないでしょうか。