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人類の秩序も結局は暴力なの⁉️
ウクライナとロシアの戦争やイスラエルとハマス、イランとの戦争など、世界情勢はきな臭くなっています。
世界はグローバル化したことで経済は一気に発展しました。しかし、一方で1つの戦争に他国が関与して、戦争が長期化しています。
第二次大戦後の朝鮮戦争やベトナム戦争もアメリカをはじめとする西側陣営とソ連、中国などの東側陣営の代理戦争でした。
核兵器があることで、直接対決を避けたいから代理戦争の様相を呈しているのです。
原子に莫大なエネルギーがあることを発見したアインシュタインが、同じユダヤ人である精神分析学者のフロイトに、戦争についての手紙を出したところ、こんな返答がありました。
『人間には強い破壊欲動があり、生命を生命のない物質に引き戻そうとする性質があります。人間から戦争を失くすことなどできそうもありません』
という返信がきて、アインシュタインは絶望したそうです。
科学と精神の二大巨頭のやりとりは興味深いですね。
人間も動物同様に弱肉強食で生きているのか、ということを考えさせられますね。
人類の歴史は戦争の歴史です。古代から領地拡大のために、世界地図はめまぐるしく変化していきました。
『戦争論』で有名なプロイセンの軍事学者クラウゼヴィッツは、戦争は政治の延長という論理を展開します。
政治での外交交渉に決裂したら、暴力によって解決するという思考は、単なる子供の喧嘩と何ら質的に変わりませんね。
言葉では立派な単語を並べられても、やっていることはただの暴力です。
結局のところ、知的生命体である人間も、弱肉強食の動物と同じということなのでしょうか。
ひとたび核戦争が起こると、『北斗の拳』のような暴力が支配する秩序になることは否めません。
戦争の歴史を見てみると、要するに食物や水が取れる土地の奪い合いです。
戦争の原因の1つでもある上下関係、格差社会も、稲作が始まって、米を長期保存できることで、お金と同等の価値になり顕著に表れてきました。
争いの原因は、食べ物が安定的に手に入らないことから引き起こる死への対しての恐怖だと思います。
人間、死ぬ気になったら何でもできると言います。
一昨年前、百田尚樹さんの『禁断の中国史』を読んだ時に、身の毛のよだつおぞましい光景が書かれているのを見て、驚きました。
中国では大昔から子沢山だったそうです。近代では、増えすぎた人口を抑えるために『一人っ子政策』をしていました。2015年に撤廃されて、『2人っ子政策』になり3人目も容認する動きもあるそうです。
何故、子沢山だったのかは、食物不足により子供の生存率が低かったことと、もう1つ。
死んだ我が子を食料として食べていたそうです。中国には食人文化があったそうなのです。
少し話しがそれますが、国によってあいさつの仕方が違うことを、ご存知の方も多いと思います。
アメリカでは治安が悪いから
『Take it easy』 気をつけてね
と言います。
中国では、40年ほど前までは
『チー ファン ラ マ』ご飯を食べてますか?
というのがあいさつだったそうです。
私が大学生だった30年ほど前には
『シャン ワン ラ マ』インターネットをしていますか?というのが、あいさつになっていたようです。
当時の中国情勢も、日本によく伝わっていて、大学内でも『これからは中国が伸びるから中国語を履修しよう』という学生が多くて、ロシア語、フランス語、韓国語を履修する学生の倍近い人がいました。私も中国語を学びました。
中国つながりで、あいさつの話になりましたが、昔の中国は本当に貧しかったのです。
第二次大戦直後まで、食人文化があったそうです。
中国に限らず、人間は極限の状態に置かれた時には口に入る物は何でも食べるのだそうです。
第二次大戦後に、シベリア抑留をされて生き残った人の体験談には、信じられないことが語られています。
食べる物がなくて、ひもじいから自らの糞尿を鍋で煮込んで食べたり、死んでいる仲間の尻にかぶりついたと語っている人もいました。
しかし、通常は人の肉を食べる国の人はいません。
食人を文化としているのは、中国だけだったそうです。
菅原道真が894年に遣唐使を撤廃したのも、そのようないきさつがあるという話もあります。
遣唐使に行って帰ってきた人から、唐では『路店に、鶏肉や豚肉と並んで普通に人肉が売られている』と聞いていたそうです。
でも、極限の状況の中では、誰でも人間の肉でも食べるのだそうです。
餓死寸前の状況は、想像を絶する苦しさがあるのだそうです。平和な時代の私たちには想像することもできませんが。
それくらい、食べ物が無い状況は、人間の思考力の及ばない、動物的な領域になるということでしょう。
日本でも鎌倉、室町期には飢饉が頻発して、農民が鍬や鎌を手に一揆が各地で起こりました。
死ぬとわかったら怖い物なしです。餓死して死ぬくらいなら、裕福な貴族や武士を殺そうと考えるのは自然な発想です。
ナポレオンはこんな言葉を残しています。
『宗教は貧乏人が金持ちを殺すのを思いとどまらせる』
古代ローマ帝国が、キリスト教を国教とした意図が、ナポレオンの言葉に集約されていると思います。
大昔の権力者は、宗教を政治利用する観念しかなかったと思います。自分たちの一族が未来永劫繁栄するためには、民衆の心をコントロールしなければならない。
そのための宗教はうってつけだったのです。まだ、科学が発達していない古代では何が真実なのかも定かではありません。
現代の私たちは非科学的な事象には消極的な人が多数です。神様そのものを、本気で信じている人は宗教家でない限りいないと思います。
しかし、古代では『人を殺せば地獄に落ちる』という宗教観が浸透して、疑う術がなかったのでしょう。
古今東西の権力者の普遍的な考え方として、如何に人々より優越性を保てるのかだと思います。
もともとある財産がなくなり、生活水準が低下することへの不安が、一般人の数倍あるのではないでしょうか。
この前に書いた記事『所有しすぎると、自由はなくなる?』にも書きましたが、
結局のところ、富の上下に右往左往しているのが、人間の悪しき伝統ではないでしょうか。
もともと、財産が無ければ失う物はありません。
結局のところ、戦争とは、富の減少に不安になった指導者が、富の復活のためにしているにすぎないと思います。
そのためには、力ずくで奪うという暴力の方が話し合いより、圧倒的かつ簡単に手に入れられると考えているのでしょう。
しかし、今はグローバル社会です。国と国の戦争に第3国がからんできます。
人間の行動には常に利益がからんでいるものですが、アメリカをはじめ、EU諸国が武器援助などが、果たして利益につながっているかは、疑問符がつくところです。