消え失せた友情
#創作大賞2024
#エッセイ部門
私が子供の頃はまだ、家の周辺は田んぼや空き地がたくさんあった。昭和50年代の話である。
物心がついたのは、おそらく幼稚園入園の5歳くらいだと思う。
私の記憶の1ページ目がその頃だからだ。先生の顔と名前も覚えている。たしか吉村理恵先生(当時25歳くらい)だったと思う。
何故、ここまで覚えているのかは、おおよそ推測できる。
とにかく、よく怒られていたからだ。他の子のように先生の言うことを聞く子供ではなかったのだろう。何故、怒られていたのかは、具体的には覚えていない。
しかし、人間の記憶システムは感情と共にある。平凡な日々の記憶は残っていないが、泣いたり、笑ったりと強く感情を揺さぶられた記憶は、しっかりと貯蔵庫に収められている。
その幼き記憶の中でも一際色彩があるのが、小学生時代である。何故なら私の人生の中で一番の黄金期だからだ。
小学二年で地域のソフトボールチームに入った。
この頃は昭和57年で、社会的出来事としては、日航機羽田沖墜落事故、長崎大水害、東北、上越新幹線が開業、中曽根内閣発足があった。
個人的には、我が家は博多織の呉服店を営んでおり、時折訪れる父の同業者やお客さんに『隆志くんは大きくなったらお父さんの後を継ぐのかな?』という質問をよく聞かれていたのでよく覚えている。
私が小学生時代はまだ、高度経済成長期の余韻がまだ残っており、父の商売もまだ順調だった。
今ではあまり耳にしなくなった『専業主婦』が母の勤めだった。
小学生の私は、とにかくお母さん子だった。母の深い優しさと、曲がったことを徹底的に嫌う厳しさに教育されたと言っても過言ではない。
だから私が大切にしている単語は『優しさと思いやり』である。
母の教育で今の私の精神の基礎を作ってもらったことを感謝している。
昨今、テレビのニュースを見ていると、母親が我が子を殺したり、父親が我が子を殴る蹴るなどしたりと悲しい事件を目にする度に心を痛める。
そういう事件を起こす親の過去をさぐれば、やはり同じように虐待されていたり、幼児期に両親が離婚していた家庭が多いこともよく報告されている。
幼児期の体験はその人の人格形成とその後の運命に大きく関わってくることを痛感している。
フランスの皇帝ナポレオンもこのことを裏打ちしている
『子供の運命は常にその母がつくる』
母の愛とは貴重なもので、『無償の愛』とよく喩えられるが、まさしくその通りだし、『母は強し』を私にまざまざとみせつけてくれた。
私が小学3年の頃、学校の部活動が紹介されていた。バスケット、バレー、サッカー、剣道、空手などだ。
この頃はまだ、学校の先生が監督、コーチを務めていたので、担任の先生が希望者を募っていた。
今では、地域のボランティアか運営団体がしていることを鑑みると、当時の先生たちの労働時間が長かったことは容易に想像できる。
しかし、当時の先生たちの部活動を指導する姿は情熱的だった。どの部活動の先生も目を輝かせながら、厳しい指導と笑いながら生徒と走り回る姿を私の記憶に残している。
私は小2からソフトボールをしていたけれど、もう1つ書道も習っていた。ソフトボールは週に3回の練習。書道は毎週土曜日だけ。週に4日は習い事で埋まっていた。
しかし、同じ小学校のグラウンドで練習しているサッカー部の練習を横目で見ながら、サッカーもしてみたいという感情が大きくなり、小3時に入部した。
その頃の私は多忙を極めていた。月曜日から日曜日までほぼ自由な1日がないのだ。
しかし、当時の私を振り返ると嫌な思い出は1つたりとて思い出せないのだ。
毎日の学校での授業は成績が悪かったので、勉強はとにかく嫌いだった。特に作文が大の苦手で、ほとんど白紙状態だった。
今となっては、noteで書くことを何よりの楽しみになっていることを思えば、大きく成長したと自画自賛してもいいだろう。
勉強は全く駄目な私であったが、スポーツではヒーローになっていた。
小学4年になると、サッカー、ソフトボール両方ともレギュラーポジションを不動のものとしていた。サッカーではゴールキーパー。ソフトボールはレフトで3番バッター。
上級生を押しのけて、レギュラーを獲得できたのは、他の子より並外れた努力をしていたこともあるが、1番の要因は体が大きかったからだ。成長が他の子より早かったのだ。
だから、同級生がやたらとチビッ子だった。
多くの方もこのような経験はないだろうか。幼い頃に、スポーツや勉強でクラスの中でもトップクラスだったのに、大人に近づくにつれ、他の人に追い抜かれたり、追いつかれたり、自分が特別な存在と錯覚していた経験だ。身長が目に見えるいい例である。
私はクラスで1番か2番で背が高かった。しかし、中学に入ると、みんなに追いつかれ悔しい思いを徐々にしていった。
私が小学5年になると、サッカーチームも強くなって、私の活躍が目立つようになり、『マッチャンが0点におさえてくれるけん、ウチのチームは絶対に負けんばい』とチームメイトも誇張して言ってくれるようになった。
私の人生黄金期
私たちサッカーチームのそれぞれの両親は熱烈な応援団となった。毎週日曜日はほぼ、サッカーの試合で、当時は雨がかなりふっていても中止になることはなく、予定どおり実行されていた。
夏場の練習中にも、『水を飲むこと』は厳禁で、見つかった者はこっぴどく怒られた挙げ句、練習が終わった後に罰として、グラウンド10週走らされていた。
今となっては考えられないことだろう。当時は、まだ『熱中症』という言葉もなく、『日射病』と呼んでいて、少し休んだらすぐ治ると言われるほど、病気という観念はまるでなかった。
しかし、今から35年以上前は、まだ地球の温暖化など庶民レベルでは聞いたこともなかった。
今の時代に水も飲まずに夏場、サッカーや野球などの練習をしていると、かなりの確率で倒れる。
まだ、私が子供の時代は地球環境的にも過ごしやすかった時代と言えるだろう。
しかし、それでも夏場の練習3時間に水を飲めないのは、相当苦しかった。練習後に、1リットルの水筒のお茶が一気に空になることを思えば、どれだけ喉が渇いていたかを容易に想像できるだろう。
それに、この世のものとは思えないほど、水やお茶が美味しく感じたことをよく覚えている。
そして、私が主題の『消え失せた友情』で述べたいのは『心の病気』の原因の1つだと考える『友情』を、今と昔の対比の中から分析する試みだ。
私たち小学校のサッカー部はレギュラー全員本当に仲良しだった。
同じ目標に向かってつき進んでいたからだ。
当時の福岡の少年サッカーリーグは6部構成されるほど、チーム数が多かった。なにせ、戦後の第一次ベビーブームの2世が私たちの世代だ。もっとも、そのせいで大学受験や就職活動で苦しむことになるのだが。
私たちのチームは2部リーグと上位になっていたので、みんなの合言葉は
『目指せ1部リーグ』だったのだ。
日曜日に試合がなくて、休みになるとレギュラー全員で近くの池にブラックバスを釣りに行っていた。
今のようなゲーム、パソコン、スマホなどまだない時代だ。かろうじて、ファミコンが普及し始めたのが、小学6年の頃である。
だから今の時代のインドア派に比較するとアウトドア派ということになるだろうが、当時は『熱中症』同様に言葉すらなかった。それだけ、新しい物が作られているということだろう。
かろうじて、流行っていたインドア遊びはガンダムのプラモデルやジグソーパズル、将棋、オセロなどかあった。
しかし、魚釣りよりは面白くなく、インドア派は私の友人には1人もいなかった。
サッカーでの一体感をもっていた私たちは、友情の絆でつながっていた。応援する両親たちも例外ではない。
子供つながりで親しくなった親たちもよく集まってスナックや居酒屋などによく行っていた。
子供も親も、1つの目標で沸き上がっていた。
『1部リーグ昇格』『コカ・コーラ主宰さわやか杯優勝』
さわやか杯は、福岡県内各地域で勝ち進んだチームが集う福岡県大会で、これに優勝すると名実ともに福岡ナンバー1の称号が与えられるのだ。テレビ中継もされた。
北九州市という、福岡市からすれば遠方になるため、チーム全員前日からホテルに泊まりこみ、決戦に備えた。
ホテル内では、決戦の緊張などなんのそので、無邪気に枕投げをして夜を過ごした。
しかし、キャプテンの三岡徹は『明日は絶対に勝って優勝するばい』と力強い声でみんなを鼓舞していた。
この三岡徹は私の大の親友で、後に高校卒業後ブラジルにサッカー留学を3年した。しかし、帰国後Jリーグの入団テストに落ちて、統合失調症になり入退院を繰り返すことになる。
小学時代の徹は飛ぶ鳥を落とす勢いがあった。サッカー部の絶対的エースストライカーでキャプテンだった。
当時流行っていた『キャプテン翼』の翼くんにもよくにていた。短距離、長距離走を走らせても学年1位。ブラジル留学を後にしたのは、翼くんの影響だろう。
徹が翼なら、私はスーパーゴールキーパーの若林源三と呼ばれていた。
私は福岡県内の大会で、5、6年時に合計5回最優秀選手に選ばれた。徹も同時に選ばれていた。だから、ポジションは違えど、彼をライバル視していた。
このあたりも、キャプテン翼のストーリー構成とよく似ていた。
それともう1人、日向小次郎のような天才ストライカーがいた。
寺田公平といって、お父さんが元プロ野球の選手だ。
ソフトバンクホークスの王会長と同時代にしのぎをけずっていた南海ホークスの寺田陽介選手だった。
お父さんの血をひいているだけあって、スポーツ万能。サッカーでは、まさに日向小次郎のような弾丸シュートが彼の持ち味だった。
そして、面白いのは公平は4人男兄弟の末っ子で、3人の兄も誰1人野球をしていない。3人の兄はみな柔道をしていた。
公平だけがサッカーをして、高校も私と彼は東福岡高校サッカー部まで運命をともにすることになる。
私とキャプテン徹、それと公平を要するチームは本当に強かった。私の人生の中で表舞台に立てたのは、この時期だけなので、記憶の棚の真ん中に整然と輝いている。
さわやか杯では、一回戦で優勝候補と運悪くあたり惜しくも破れはしたものの、過去の試合の中で、最もハイレベルな試合だったので、みな悔いはなかった。
それよりも、やりきった感が強く、負けた直後にもちらほら笑顔もこぼれていた。
過去の栄光は諸刃の剣
中学になってから、何やら様子が違うことに違和感を覚えた。
小学生までは、なかった上下関係という社会形成上の秩序の1部が、目の前に突如現れた。
小学サッカー部でも一緒にプレーした平川くんを『ヒラちゃん、また一緒にサッカーができるけん、よかったね』と言うと、怪訝な顔をしたので驚いた。
慌ててかけよった2年生は『おまえ、なんて言う口の聞き方をするんか。ヒラちゃんじゃなくて、平川先輩か平川キャプテンやろうが!』とまくしたてた。
よくよく考えると、この中学1年から、社会で組織の中で生きていくための礼儀、礼節を学んだ最初の年なのだ。
英語には敬語がないから、目上の人間に対して日本人のように気を使うことがないらしい。
しかし、欧米の横社会に対して日本が縦社会と言われるのは、言語による文化の違いからくるものであろう。
中1の私はかなり戸惑っていた。今まで先生にしか敬語を使っていないのだ。しかも大して読書もしていないので、日本語そのものも、お友達言葉しか知らないのである。
そのため、よく上級生に『おまえは生意気だ。痛めつけてやる』と言われ、殴る、蹴るの暴行を何度もうけた。
それと、小学生時と同じように、中1の部員の中で私だけが、2年、3年の先輩を押しのけてレギュラーになったことが、彼らの嫉妬心に火をつけてしまった。
しかし、スポーツというのは年功序列というのは存在しない。実力勝負である。
今、日本代表で活躍する久保建英も中3の時にJリーグデヴューしている。
しかし、そんな常識など、地域の中学生には関係がない。感情の赴くままに、気に入らない奴はたたきのめすのだ。
しかし、私の小学校からのチームメイトは私のことを見すてたりはしなかった。
私が2年生から絡まれていると、キャプテンの平川先輩に告げ口してくれて、彼らに絡まれている私を何度も助けてくれた。
キャプテンも、私はチームの貴重な戦力として、信頼してくれていたので、『松永、お前に怪我でもされたら、キーパーがおらんようになる。怪我だけはするなよ』と言って大事にしてくれた。
しかし、この頃から我が家に異変が起き始めた。父の仕事が上手くいかなくなっている。すでに、高度経済成長は徐々に衰退していき、贅沢品は売れなくなっていた。父の家業である呉服店も閑古鳥が鳴きはじめ、人がよりつかなくなっていった。
そして、父はうつ病になった。当時は、精神病に対して社会も冷ややかな目で見ていたため、母も父の病名を隠している様子だった。
それからの我が家は生活が一変した。
父がうつ病で入院して、収入がなくなったため、母は花屋さんでパートを始めた。
しかし、パート収入で家族4人が生活できるはずもない。それまで父が働いて貯めた預金を食い潰しながら、生活していたと後に母が語った。しかし、預金の1500万は、新築の家を建てるために貯めたお金だったらしい。
私が中学3年間を過ごす間に、預金も底をついたそうだ。生活費と入院費用で1年で500万ずつ減っていった計算だ。
この後に社会はバブル景気に入るのだが、我が家に泡がつくこともなく、お金に困る生活だった。
私はと言うと、サッカー部の仲間たちと、ブラックバスを釣りに行ったりして、楽しくは過ごしていたものの、退院した父が働かなかったため、夫婦喧嘩が絶えない家庭となっていたので、家に帰ると憂鬱だった。
私と妹は、喧嘩している原因が父にあることがわかっていたので、2人とも母の味方についていた。
しかし、今のご時世から鑑みると、父にはひどい仕打ちをしたと後悔している。
当時は精神病に対する情報量が少なかったので、ただ仕事をしたくない贅沢病のような認識しかなく、母がせめているので、つられて兄妹が歩調を合わせていたのだ。
その時の父の心情を察するには余りがある。男としての面子が立たず、ふがいない姿をさらしている時に、家族で優しく包めなかったことに対する孤独感。今自分が同じ父親になって、はじめて痛感できる。
その父も72歳で8年前に他界した。ただ、生前には『一応、中古物件だけど家を買うことにしたよ』と話すと
『おまえも1人前になったな。俺はおまえたちにマイホームを買ってやれなかったからな』と少し涙ぐんで言ったのを、聞きながら、昔のことをいつまでもひきずってるんだなと思った。
そんな過去を悔やむから病気になるんだよ、と心の中で言ったのをよく覚えている。
高校に入った私は、サッカーをするために県内有数の強豪の東福岡サッカー部に、前述の友人寺田公平と一緒に門をたたいた。
しかし、ある程度の想像はしていたものの、特待生ぞろいで、自分の実力が井の中の蛙だということをまさまざと見せつけられた。
私の実力など彼らの足元にも及ばないのだ。
ところが、公平は違った。元プロ野球選手の父のDNAが開花し始めた。
1年生なのに、特待生たちを差し置いて、1軍の試合に出始めた。やはり、天性の才能を持っていたのだ。
中学では私がキャプテンを務め、トップの位置で点をとっていて、彼は影の存在だったのが、高校に入ると一変したのだ。
これは私もショックが大きかった。小学校から常に私が1歩先をいっていたのに、高校に入ると2歩も3歩も先をこされてしまったのだ。
このような経験はスポーツに限らず学業でも経験された方は多いのではなかろうか。
小学校、中学校ではクラスでも1番の成績でも、高校に入ると成績がどんどん下がっていき普通の成績まで下がったという経験だ。
私の友人の中にも数名いる。このことを今考えると、小学校、中学校というのは、まだ成長期で成長の早い子は何をやっても同級生の中では上をいく。
しかし、高校生ともなると、今まで成長が遅かった人も、身長と同様に頭脳、精神まで、みなと同じレベルまで追いつく。
過去の栄光、幼き日の栄光など単なる幻だったことを私は痛感している。
しかし、唯一の救いは多くの友人と遊んだり、サッカーやソフトボールなどのスポーツをしていたことで、客観的視点だけは人並みに身についたと思っている。
私の息子は現在20歳だが、統合失調症で入退院を繰り返している。
今回のエッセイは、息子たちのZ世代と私の第2次ベビーブームとの環境の対比の中から、そうした心の病気になる原因を考察しながら、過去の記憶を引き出してみた。
私の息子佑太は小学生から少年野球をしていて、私の小学生時代同様にチームの中でも中心選手だった。
ところが、前述したように中学校になると、小学生の時に成長が早かっただけで、他の子に追いこされレギュラーにもなれない始末だった。
そのことをしきりに悩んでいた。しかも、チームメイトも、そんな佑太に優しい言葉をかけてくれる子は1人もいなかったようだ。
現代がニート人口が爆発的に増えているのも、ここに原因があるのではなかろうか。
インドアで楽しめることになったことで、昔のような生の友情をわかちあう機会が減っている。
たとえ部活動をしていても、それをやっている時は必要最低限の友達関係があったとしても、引退してしまえばそのつながりも簡単になくなる程の薄っぺらい関係でしかない。
個人主義的な空気が蔓延して、助けあう友情など想像上の世界という空気が、若者が希望を失う1つの原因だとも思う。
何も、Z世代が劣っていて、その親たちの精神力や能力が優れているという話ではない。
私が子供の頃は、父の呉服店にくる同業者は『君たちは幸せだよ。私たちは戦後の復興の中でみなが夢を抱き、強い心を養ってきた』という、自分たちの世代を肯定して、今の世代を否定する大人がやたらに多かった。
しかし、私はどの世代がつらかったとか、優れているという短絡的思考は毛頭ない。
どの時代にも、それなりの大変さがあるし、そもそも生まれる時代を選べないのだ。
生まれた時代が自分が住む場所だし、その時代に順応していかなくては生きてはいけない。
ただ、現代もそうだがこれからの未来は、科学の発達による物資文明の加速により、人間本来の精神性も脅かす時代も覚悟しておかなければならないだろう。
人は1人では生きていけないのだから。