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愛の連鎖 痛みの連鎖
今回は(児童)虐待について考えてみたいと思います。
前半は現状と心理学や精神医学の視点から
後半はエイブラハムの教えの視点から
前半部分は無料、後半部分を有料(¥100)となります。
それでは始めます。
親側の精神的問題が虐待のリスクを高める
児童虐待のニュースが取り上げられることは多いのですが、何故命を救えなかったのか、というエモーショナルな書き方がほとんどだと思います。
最近になり、研究と統計的な分析と結果がわかってきたようです。
![](https://assets.st-note.com/img/1674200201764-Tw0T4cPV7O.jpg)
この本からの引用で始めます。
近年、「親側の精神的問題」が児童虐待のリスクを高める要因として注目されている。
二〇〇四年(平成一六年)の服部らの研究では、児童相談所や医療機関へのアンケートから、虐待する親の質的研究を試みた。
この結果から虐待の要因を分析すると、約八割が親側の「人格特性」であると考えられることが報告された。
また、二〇一四年(平成二六年)の藤原らの研究では、子ども虐待の死亡事例が〇〜三歳に集中していること、致命傷となるのが頭部外傷であることに注目し、親による受傷機転(子どもがけがをした経緯やきっかけ)の説明、メンタルヘルススクリーニングを用いた親の特性などを解析し、さらに親の質的研究も行った。
この結果、親側の「発達障害傾向」によって虐待のリスクを高めると考えられることが示唆された。
この際の質的研究によって得られた親の特徴としては、「食事へのこだわり、検査・治療へのこだわり、子どもと同調できない、ふたつ以上のことを並行処理できない、融通が利かない・予定を変えられない、子どもが思ったように行動しないと苛立つ、理屈で追いつめる・衝動的な暴力を正当化、社会との不適応(会社での人間関係など)」があげられている。
—『ルポ 虐待サバイバー (集英社新書)』植原亮太著
https://a.co/8OaJlwO
文中後半の
『食事へのこだわり、検査・治療へのこだわり、子どもと同調できない、ふたつ以上のことを並行処理できない、融通が利かない・予定を変えられない、子どもが思ったように行動しないと苛立つ、理屈で追いつめる・衝動的な暴力を正当化、社会との不適応(会社での人間関係など)』
この特徴は、大人になってからわかる神経発達症(発達障害から呼称が変わりました)の人の特性と重なります。
ここで最初に一つ確認しておきたいのは、
親側の神経発達症(発達障害)傾向が虐待のリスクを高める
ということであって、
「全ての神経発達症傾向にある人が虐待をする」というわけではない
という事です。
虐待の心理的メカニズム
同じ本の中から、児童虐待に詳しい高橋和己医師(風の木クリニック)の論文
「虐待はなぜ起こるのかーその心理的メカニズム」の抜粋、引用に著者が説明を加えている部分も引用します。
「軽度」知的障害がある:現場における割合の推定値=80%~
知的障害は、社会的な適応能力が障害されている程度に応じて最重度、重度、中等度、軽度の4段階に分けられている。
最重度から中等度は施設や家庭内での支援を十分に受けられないと生活が難しいが、その一方で「軽度」の場合は自力での日常生活が十分に可能である。そのために見落とされやすく気づかれにくい。
だが、「軽度」でも「DSM-5を引用すれば、『他者の思考、感情、および体験を認識すること:共感:対人コミュニケーション技能』ができない『適応機能の欠陥』があり、
『定型発達の同年代に比べて対人的相互反応に未熟』で『情動や行動を制御することが困難』であるため、
『成人期において、食料品などお買い物、家事及び子育ての調整、銀行取引や金銭管理の支援が必要』とされている。
この場合、『助言・指導はあまり効果がなく、子育て環境の調整が大切である。
人間関係への理解が未熟なため、子育てのことでわずらわせると、かえって問題が大きくなるか、支援者との間でトラブルが起こりやすい。
したがって、親の持っている能力の範囲内で子育てを行えるようにしていく(子どもの世話をするように無理な働きかけはしない)という支援法生真に策定すると、親の「行動にも変化」が見られる。
被虐待体験がある:現場における割合の推定値=10%
愛着障害によって、子から向けられる愛着を否認してしまう(愛着関係の不全とは異なる)
「自分から虐待しそう、してしまったと訴えてくる母親が多い」傾向があり、育児不安が強い。
この場合は環境調整だけでは不十分なことがあり、子を否認してしまう心理を支援者が理解することが大切で、そのうえで「子育て支援とカウンセリングで回復する」とされる。
統合失調症などの重い精神障害がある:現場における割合の推定値=5%
急性期の厳格妄想状態で子への虐待が起こることがあるが、反対に「慢性期は落ち着いている」。
基本的には薬物療法が重要であり、『原疾患の治療が第一』である
虐待の現場において、一番目の親側に軽度の知的障害がある場合80%~
これはかなり大きな数字だと思います。
異邦人ーこの世界に居場所がない
10年くらい前に、前述の論文の著者である高橋和己氏の
「消えたい」
──虐待された人の生き方から知る心の幸せ (ちくま文庫)
を読みました。
絵本を読んでもらったことがない、
ご飯を食べて「おいしいね」と共感してもらったことがない
という箇所を読んで、私の母親の抱えていた精神的問題に気付きました。
母は上述の80%~「軽度 知的障害」に当てはまります。
対人コミュニケーション・反応に未熟で、金銭管理、役所関係の諸手続き、適切な買い物ができません。
読み書きはできますし、外での会話などでは、わからなくても適当に相槌を打つ、笑う(その場をごまかす)でやってきたようです。
母はどちらかと言えば美人であったので、できないことは周囲が察してやってくれてきたようです。
年齢を経てからも、他者の真似をする、苦手な部分を家族に丸投げする、できないことや都合の悪い事は他人や家族のせいにする、年寄りで弱者を誇張する等の母なりのサバイバル方法を駆使してきました。
母は自分のできない部分にある程度は自覚があり、相当の劣等感も抱えていたようです。
昭和一桁生まれですから、適切なサポートなど望むべくもなく、戦争を挟み、みな自分が生きることで精いっぱいで、それは母も同じだったと思います。
母は宗教(キリスト教)に救いを求めました。
他者と相互的なコミュニケーションはとれない(自分の意見はほぼない、場面に合わせて言うが一貫性はない)けれども、適当に相槌はできるので、
精神医学・心理的側面に詳しい人でなければ、母は会話内容を理解していると思い込んだと思います。
このような親に対して子を世話するように無理な働きかけはしない方が良いとありますが、それは全くその通りだと思います。
本人ができないことを要求されると、その負担は家族、特に子どもにそのしわ寄せ(虐待)がくるからです。
はっきりとわかるエピソードを一つだけ書きます。
私が高校3年、12月クリスマス直前、受験を控えて家で勉強していました。
母はクリスマス準備か何かで教会に出かけ、帰宅したのは辺りが暗くなった5時~6時過ぎくらいだったでしょう。
母は帰ってくるなり私にクリスマス礼拝の案内を近所に配ってこいと言いました。
私はこんなに暗くなっているし明日でもいいのではと言い返しますが、今すぐと行けとききません。
ではポストにいれてくればいいのかというと、クリスマス礼拝の参加のお誘いを直に話して来いというのです。
年末のこんな時間に来られる先方も迷惑だと高校生ながら私は思うのですが、今すぐ行けというのです。
それも「5軒回れ」とも。
私は仕方なく顔見知りのお友達のお母さんのいるところ2,3軒回って帰りました。
母は帰宅して命令した時とは違ってご機嫌でした。
自分がやれと言われたことを子どもにうまく押し付けたという感じだったのかと思います。
教会で5人以上お誘いましょうという働きかけがあったかと思われます。
普通の人はこの時期にそれは無理だわ~と聞き流すこともできるけれど、それは母にはできないことだったのでしょう。
神経発達症の人にとって、こだわりと真面目さは表裏一体なのです。
高校生で宗教がらみで虐待と感じないかもしれませんが、幼い頃のことは覚えていないだけで、こんな感じのことはいくつもあったのではないかと思います。
小学生3、4年の頃、指先はボロボロ(自分で皮をむく)、鼻は真っ赤に腫れあがり(原因不明)髪の毛はベタベタ(洗髪などのケアが行き届かない、母は弟とだけ風呂に入り私は一人ではいるようにいわれていた)でした。
思春期にも原因不明の体調不良になった事もありますが、その原因は母の言動からくるストレスだったとも思います。
私にとって、母親は甘えられる対象でもなく、守ってくれる人でもなく、無理難題を押し付け、ネガティブな感情を突然ぶつけてくる人でした。
笑って楽しそうにすればネガティブな事を言われ突き落とされ、悲しんで泣けばそんなことで泣くなんてと攻撃されました。
しだいに母の前で感情を顔にださないように表情を読まれないようにしました。
どんな表情をしても攻撃されるので、何を言われても表面上は平静を装いました。
そのような状態でも、当時の私は母の態度の意味をはっきり理解しておらず、私は母が愛してくれていると無理やり思い込もうとしていました。
子どもと愛着関係を結ぶのが困難な親がいる
愛着関係とは母親(主な養育者)と乳児・幼児の間で育まれる信頼関係です。成長過程で学んでいく対人関係、社会性などはこの愛着関係を土台にして育まれていきます。
かなり以前に他のブログで書いた記事ですが愛着関係の参考になれば
再度 「ルポ虐待サバイバー」からの引用します。
児童虐待は、「親側の精神的問題」が原因で起こることが決して少なくない。これは、これまでの研究、報告を概観しても分ることである。
ここでさらにわかることは、児童虐待は、親の頑張りや努力などで防止できるものではないということである。
これとは無関係の親側の先天的な精神的障害によって起きていることがある。つまり、どんなにがんばっても子どもとの愛着関係を結ぶことが困難な親がいることも事実なのである。
児童虐待の問題に関わり、日ごろから支援する立場の人であれば、子どもと愛着関係が気づくことが困難な親がいることも理解しているはずだ。しかし、頭ではわかっていても心が理解できないことがある。それが私が考えている『支援者側の心理的な問題である』
どんなに頑張っても子どもと愛着関係を結べない親がいる。
私自身も教育に携わってきましたが、自分の親がそうであった事に気づいたのは50歳を過ぎて母と同居してからでした。
支援者側の心理的問題とはどういうことでしょか。
支援者と被虐待者の感覚のずれ
つまり、それは親との信頼関係のもとで育った人と、親との信頼関係がほぼなかった人との感覚が全く違うということらしいのです。
*愛着関係が成立し・養育者との信頼関係・保護・恩恵のもとに育った人
(支援者の多くはこちら 多数派)
*愛着関係・基本的信頼がない、極端に乏しかった人
この両者の感覚が全く違うと。
私は後者ですが、ながらく前者だと思い込んでいました。
けれど、20代前後の頃から私のいる場所は普通に楽しそうに生きている人たちの場所とはどこか違うという感覚はありました。
40代の頃(離婚後)その感覚は強くなり、母との関係性を理解し、
人や社会・世界を信頼できるようになってきたのはごく最近のことです。
愛着が成立した関係の元で育った人とそうではない人との感覚の違いが
虐待の現場を行き詰まらせてきた面もあるようです。
再び引用します。
厚生労働省による親子関係再構築支援ワーキンググループは『社会的養護関係施設における親子関係再構築支援ガイドライン』を公表しており、これがさまざまなところで応用されている。
ここでの「再構築」の定義は、「子どもと親が相互の肯定的つながりを主体的に回復すること」である。
上記の表現からも、親と子の愛着関係の成立を前提にしていることがわかる。
ところが、この前提にあてはめてしまったことによって時には被虐待児は痛手を負う。
彼らは親に振り回され、支援者にも振り回されていることがある。
児童虐待が起こる特殊な親子関係を、私たちは知らない。「標準的な親子関係の中で成育してきた立場からでは、これを正確に理解していくことが難しいのである。体験したことのないものは想像の域を出ないし、その創造は愛着関係を土台にした『内的作業モデル』から導き出されている。
つまり本質的な問題は、この世の多くの人は当たり前のように親との愛着関係を築いていることなのである。
私たちとくらべて被虐待児(者)たちは、異なる感覚で自分の親のことを見ていて、心のどこかでは親のことをあきらめているようである。
親との間に「愛着関係」や「基本的信頼関係」がないか、極端に乏しかったからこその、客観的かつドライな視点で自分の親を評価しているのかもしれない。
それはある意味で親の愛情を信じきることができなかったゆえの視点なのだろう
確かに親と当たり前のように愛着関係を築いてきた人の感覚と私は違う感覚を持っていたと、この箇所を読んで再確認します。
けれども、究極的にいえば、人はそれぞれ違う感覚に生きていると私は思います。
ー被虐待児(者)は親のことをあきらめているーとありますが、
世間一般で言われるの親とは違う、
親の役割をすることができない、機能しない、
子どもと愛着関係、信頼関係を築くことができない、
そのまま、ありのまま親の在り方を受け入れるしか、
当事者は進むことはできません。
自分の思考は変えることはできるけれど、他人を変えることはできないからです。
それは家族、親子であってもそうだと思います。
親(他者)がこうであったらという思いや願いを日々打ち砕かれながら生きてきて、現実を受け入れること、親に対する望みやコントロールを手放す事で、そこからやっと自分の人生が始まりました。
当たり前のように愛着関係を築いてきた人たちという大枠・マジョリティ的なくくりはあるかもしれませんが、細かく見ればケースバイケースの一人一人の感覚があるのではと思います。
それが多様性という事ではないかと思います。
人種 性別 LGBTQ 神経発達症(発達障害)・・・etc
虐待・ネグレクトはヤングケアラー、介護 と続いていきます。
私の93歳の母は今、高齢者サービス住宅に入居してケアやサービスを受ける立場となりました。
90歳を過ぎてやっと介護という範疇で、それなりのケアを受けることになりました。
もし、適切なケアやサービスが結婚~子育て支援~の時からあれば、家族のその後は違っていたかもしれません。
過去は変えられませんが、未来は変えることができます。
では、エイブラハムは機能不全家庭や虐待についてどのように教えてくれるでしょうか。
自分の実体験をもとに書いています。 悩むことも迷うことも多かった、楽しんできたことも多いにあった 山あり、谷あり、がけっぷちあり、お花畑あり、 人生半分以上過ぎたけど、好奇心はそのままに 何でも楽しむ気ありありです。よろしく!!