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岡康道さんに教わったこと。

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これからの時代を生きる若者たちに、我々大人は何を伝えるべきだろうか?
大人として、社会人として、教育者として、そんなことを常日頃考えています。
ただ、考えてはいるけど、明確な答えはぼくの中には存在せず、「個別対応」みたいな薄ら誤魔化しをしながらここまで生きてきてしまったような気もしています。

しかし、2020年の年末に、明確な一つの答えを得たように思っています。いや、得た、などと偉そうに言ってはいけないかもしれません。教わった、と言ったほうが正確でしょう。

あるご縁で、岡康道さんの著作を4冊ほど読ませてもらう機会がありました。2019年の秋以降のことです。

岡康道さんのプロフィール、わざわざここで掲げる必要もありませんが、ぼくはもともと全くもって脇道から知ったわけで、岡さんがCMプランナーでありクリエイティブ・ディレクターであることは後付けで知ることになりました。直接的な関わりはありませんでしたが、少し身近に感じることのできる人生の先輩ではありました。

岡さんをより身近に感じることになったのは、皮肉なことに彼が逝去した後のことでした。直接的に身近だった方々にとって、そして何よりも岡さんご本人にとっても、それは突然のことだったようです。ネットニュースやSNSでも、さまざまな著名人の方々が追悼のメッセージを載せているのをたくさん目にしました。

その後、岡さんの著作をお借りする機会を得ました。一冊は岡さんの自叙伝的小説『夏の果て』。そして、岡さんの盟友・コラムニスト小田嶋隆さんとの対談本を二冊。最後に、岡さんと岡さんの実弟・岡敦さんとの共著で、岡さんがお亡くなりになる直前に出版された『広告と超私的スポーツ噺』。

ぼくの読書は非常に雑食であるため、一人の作家さんの本を何冊も連続して読むことは意識的に避けているのですが、良い機会だからと思い、一気にこの四冊を拝読しました。

『夏の果て』は自叙伝的小説。「的小説」とは何ぞや、と思いましたが、登場する人物の氏名を変えて書かれているのです。描写があまりにも細かいため、さすがにここまで自分のことは憶えていられないだろう、若干の脚色はあるのだろうと読み進めましたが、貸してくださった方からの後日談や件の対談本から窺える限りではどうやらその多くは事実だったようです。

岡さんが日本を代表するCMプランナーになるまでには、相当破天荒な道を歩まれていたようでした。
生まれてすぐにご両親が家族から逃げるように東京に移住、四畳半二間の長屋に家族7人での生活、弟を巻き込んだいたずらの数々、ジェットコースターのような家計に振り回されての転居の日々、父親の破産から蒸発によって大学生活を前に一家を支えることになり、それでも大学に通いながらアメフト部で内臓破裂の大怪我、ボロアパートに住みながら広告代理店での営業、営業が向かないからと広告企画部へ転勤、クライアントに叱られる日々、結婚、そして離婚、そして再婚、最後には蒸発した父親との再会…
書籍の一部を切り取っただけでもこれだけのボリューム。ぼくの人生と照らし合わせても、こんなに多くの経験はしてこなかったし、苦行とも取れるトラブルの数々を窺うにつれ、天は耐えられない試練は与えられないのだな、と思わされました。

岡さんはこれらのトラブルをこの書籍の中では非常におもしろおかしく綴っていますが、それこそその生命を脅かされるほどの数々の体験をまるでコメディ映画のように乗り越えてきた、なんてことはないと思うんですよね。
岡さんはトラブルを抱えるごとに自分の身の上を憂うとともに、それでも支えていかなければならない家族のために知恵を絞って乗り切ってきたんだと思います。

これだけの体験をした人間には敵わないよな、と正直に思いました。

結果的に、岡さんのこの途轍もない体験が、後のCMプランナーとしての成功に結実したのだろうな、と。

岡さんは広告代理店に就職したものの(この就職の仕方も伝説級のウルトラC)、営業スタート。しかしながら上述のとおり自分に向いていなかったため、CM制作へと方向転換することになったわけですが、中途採用の扱いだとしてもキャリアが一切ないわけですから、同僚に大きく後れを取っているわけです。なので岡さんは、人と同じことをしていても追い付かないと考え、かなり個性的なCMプランをクライアントに提示してはこっぴどくお叱りを受けていたそうです。
そんな岡さんがどうやって歴史に名を残すCMプランナーになれたのか?

時代は必ず巡ってくるものなのでしょう。
バブルの崩壊によって、それまでもてはやされてきた価値観が大きく揺らぎ始めました。これまで通用していたことは、これからの時代には通用しない。広告とは世相を映す鏡のようなもの。その広告がこれまでどおりのものを制作していていいわけがない。そのような手詰まり感に満ち溢れた業界には一発逆転の発想が必要…。そこで岡さんに白羽の矢が立つことになったそうです。

CM業界に岡さんあり、と名を轟かせたきっかけになったのは、まさにその白羽の矢になったCM制作でした。そのCMは、JR東日本。先の国鉄民営化によって、長野県以東の本州の各路線は一まとまりになったわけですが、とりわけ範囲が広く、特に東北地方への観光客の流れに課題があったようでした。

岡さんはCMによってその課題を解決すべく、動き出します。そもそも岡さんは佐賀県のご出身。転居した先も東京でありそれまで東北に縁があったわけではなかったため、まずは東北を知るべく、東北に足を運びました。それもただ一回や二回の取材ではありません。東北が自らの故郷と自ずと感じられるところまで。東京にいるよりも東北にいる時間の方が長くなるほどに。

数年という単位で取材という名の旅を続けていく中で、岡さんが巡り合ったのは、そこに住まう人々の生きざまでした。地元の方々やそこで働く方々、JRで働く駅員さん…それぞれの表情の中に東北の息吹を感じ、岡さんは彼らの表情を映像に収めました。東北の冷たい厳しい空気にさらされながら、それでもそこで力強く生きている、その表情。これまでも、これからも、その土地で生きていく、その表情。
そのときに生まれたキャッチコピーが「その先の日本へ」でした。

それまでのCMにはない、圧倒的に地に足の着いた、当たり前のようでいて新しい。そんなイメージを生み出したのが、岡さんのCMだったのだと思います。
ここからの岡さんのご活躍は、私が語るまでもありません。しかし、岡さんのお仕事は、このJR東日本のCMがベースとなりました。

私にはCMのことや経営のことを語る権利も知識もありませんが、商品や名を売るため、人気を得るため、有名になるため、CM制作者の皆さんはあらゆる知恵と経験を駆使してアイディアをCMに落とし込んでいるのだと思いますが、岡さんがこのJR東日本のCMに込めた思いは、それらのような目的を果たすというよりも、そのCMで見せるべき本質、根付いている魅力が何であるのかを示し、そこにどのような価値があるのかについて新たに気づかせるものであったのではなかろうかと思いました。その価値を、東北の価値を、JRで行ける場所にある価値を、「その先の日本へ」というフレーズに込めたのだろうと思いました。

私たちはいつの時代も、先々の生きる(そして死に行く)不安と闘い、打消し、安心を求めて活動をするわけですが、この競争社会にあって、常に目新しいもの、価値が出ると考えられるものを探し出して安心を得ているのだろうと思います。
しかし私たちが「その先の日本へ」と向かうのに、そのような価値をもって臨んでいくべきなのでしょうか。
きっと私たちが見出すべきものは、普遍的にそこに置かれているものやそこに根強く生きる人たち、その暮らしの中にある、血の通った魅力そのものなのではないでしょうか。古くもあり、新しくもある。それは、今ここにあるものだからこそ、認められる価値なのではないでしょうか。

岡さんのその仕事に触れるにつれ、ぼくは次世代以降に伝えていくべき何かに出会ったように思いました。

「新しい価値の創造」

新しいとは、価値とは、だれかに定義されるものではないし、だれかに与えられるものでもない。自分が置かれている場にあるものに、なにを見出すのか。どのような価値を感じるのか。そこからまた何が始まるのか。今そこにいる自分だからこそわかる、新しい価値。それを創り出す力。それこそが、これからを生きる私たち、若者たちに必要な力なのではないでしょうか。


ずいぶんと前のことになってしまいましたが、岡さんのご活躍を偲んで、彼のプランナーとしての仕事を垣間見ることのできる作品展があり、足を運ばせていただきました。
時代ごとに分けられたブースごとにモニターが一つ設置され、その時代のCMが次々と流されていました。

こんなにたくさんのCMを制作されていたのか、と。しかもそのどの作品も、自分のどこかで思い出されるものでした。
ただ視覚や聴覚に訴えるばかりではなく、ぼくの心に、記憶に、色濃く残されている。そのどれもが懐かしい記憶として。

そんな魅力を伝え、残してくれた岡さんの創造する力に学ぶところは多く、自分も負けずに創造していかねばな、と思わされました。

自分にしかできない、新しい価値の創造を。

岡さん、ありがとうございました!

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