「死にたい」「消えたい」の裏側にあるもの
本日の掲題。
その言葉の裏には「生きたい」が隠れているように思う。
というのは、まあ少なくとも私の意見です。
所謂、マイナスな言葉というのはまあ一番自分が聞いているわけで。
他者の発するその言葉に疲れを感じてしまったり、うんざりしてしまうことがあるように…自分が発する言葉は誰が一番聞いているかと言えば自分なわけですね。
これは脳内で言っている言葉も同じです。
死にたい、消えたい。
こういう言葉を公に言ったらどうなるか。
大抵、慰められるか、段々遠回しにされるか、無視されるか、叱責されるか。
そういうことを言うな、もっと頑張れ
とか
言わずに一人で勝手にしろ
とか
そういう言葉を投げてくる人だっている。
本心はどうあれ。
そしてそういう時聴いている当人が一番言葉をその言葉通りに受け取って、いつもならできるかもしれない、裏にある言葉なんて読む余裕すらなくなっている。
ぐさりとなにかで刺したような痛みを感じる こともあるでしょう。
これは私自身の体験談ですけれど。
人は人、自分は自分。
親であれど、自分でなければ全員他人。
他人は自分の面倒など見てくれはしない。
基本的には。
自分という存在、起こる全て。
生まれる前に決めて来たと言います。
親ガチャ失敗、ではなくて、
そういう人を選んできたんです。自分で。
と聞いたら、貴方はどう思うでしょうか。
そうだ と思うでしょうか。
違う と思うでしょうか。
どう思ったっていいんです。
それを否定してもいい。
否定しなくてもいい。
自分の中には全てがあって。
「死にたい」「消えたい」
ああ、そう思っているんだな。
それでいいんです。
それが悪いと、嫌だと
消してしまいたくなるから、
いつまで経ってもその気持ちは昇華しきれない。
あなたの本当の気持ちはなんでしょうか。
同じことを思うなら、
幸せだと少しでも思える方を選ぶことだってできる。
幸せになっていい。
それが、自分が生きる意味。
少なくとも私はそう思っています。
言葉の裏に隠されたのは
「生きたい」
「自分で、自分を認めて欲しい」
誰かに委ねるのではなくて。
それを他者へ委ねることも、そうでなくて自分で確立することも、
自分には出来る。
…結局のところ、今、貴方がどう思っていようと。
諦めなければ結局何とかなります。
そうであると根本で思っているから足掻いている。
足掻きたいから足掻いている。
足掻かなくても良いと思える日だってきっと来る。
誰かの言葉で救われるかもしれない
今、傷ついて、立ち上がっていくあなたの言葉を
誰かが待っている。
私はそう感じているから毎日生きている。
何か参考になったら幸いです。
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