「Paraphilia」と桃源の幻
誰かに「愛って何?」と聞かれたら、気兼ねなくノーベンバーズの「Mer」という曲を考えて答える。ノーベンバーズは本当に特別なバンドというのをもう知っているはずだけど、ノーベンバーズのように愛を書いているバンドは決していない。ノーベンバーズより綺麗に愛を語るバンドは決していない。恐らくノーベンバーズが「愛を愛するバンド」とさえ言えるかもしれない。ノーベンバーズを聴くにつれて、作品の中に宿る精神がだんだん理解できるようになっただけでなく、その底にある心情を感じられるようになった。と言うことは、二十歳に初恋に触れたとき、あの小林祐介に描かれたり語れたりした世界は明らかになって、密接になった。小林さんに歌われた言葉は急に意味に満ちた。
しかし、いつの間にか小林さんの歌う恋をやはり体感したことがないとわかったのに、熟れると、バンドの恋という着想の進化に気付いた。恋をテーマにノーベンバーズの作品の旅を以下始めたいと思う。少し長くなるかもしれないので、あらかじめ謝りたい。今度「Misstopia」を詳しく見てみるのだけど、「Paraphilia」から始める必要がある。
私の考えで小林さんは愛の着想が「Paraphilia」ではっきりと書き出した。
バンドの恋の道のりと言えば、始まりは初期の作品からに違いない。例を挙げると、「最近あなたの暮らしはどう」や「アイラブユー」といった曲がデビューミニアルバムと最初のフールに含めた。ただし、この二曲の中に描写された愛は初心で凝っていない気がする。つまり、あの曲は「この世界のラブソング」、身近な場面に行われる歌に思う。「最近あなたの暮らしはどう」の二人はこの世の中に生きている、息をする、本当の世界の法則に従う感覚がある。
それに加えて、「観覧車」という物質的な要素は都会的で、具体的な世界に二人を入れる気がする。
一方、「Paraphilia」で何かが変更することに気付くのは難しくない。「Paraphilia」の空想的な雰囲気は聞き手を見知らぬ場所に連れて行く。優しい小林さんの歌声とバンドのアンサンブルのサウンドがこれのきっかけというのは本当だが、「Paraphilia」の含みは歌詞の心に棚引くと考える。
この作品は「Philia」という曲で始まり、すぐにどこか遠い所への旅の印象を与える。
これが人間界だとすぐにわかるにも関わらず、さっきまで慣れていた人間界と変わっている。「Philia」の次元は桃源に近いところなのである。手をつないで遊んでいる子らは幼稚な様子に戻る意志の象徴のよう。
なお、次のセリフは、「二人は裸を見せ合った」、この解説を強化するみたい。裸とはずっと原始への回帰の意味を持っていたので、この曲の中でもこの訓詁もあるだろう。
ところが、「Philia」が流れるにつれてトーンが少し転じる気がする。今まで使われたイメージがいきなり消える印象がある。どんどん互いに続く一連の心像に向かって、リズムが速くなるにつれて、これらはますますシュールでダークになってしまう。
前半がこの異次元に属するのに対して、後半の要点は最後の三行。恐らく後半は以前の生活、以前の世界を指すだろう。「逆さに吊るされてもかまわない」という態度は絶望感を間違いなく表現するが、「意味を失う」ということにも映ると思う。「耳を失う」ということも、ボルヘスのマジックリアリズムを思い浮かべる同時に、せっかくの安らぎのシンボルとも言えるだろう。耳なしで社会からの押し付けこそ意味を失ってしまう。言われたことを聞けないなら、その意味自体がなくなってしまう。
最後に「Philia」は曖昧な姿勢で終わる。小林さんによって忘れることはカタルシスに至るように否応なしの一歩のよう。「忘れに行こう」のようなフレーズをデビューミニアルバムの「marble」といった曲などにも聞くことができる、「keep me keep me keep me」(以下:keep me)のエンディングでもある。
生まれ変わりはしなくても、二人ともできることなので、このカタルシスによって初心な様子に戻り、新鮮なアダムとイーブになってしまいそう。
「Philia」の最終のギターは水面にきらめく日差しのように感じる。その中、小林さんの悲鳴が沈んでいる。
以上のことを踏まえて、「Paraphilia」のもう二つのライトモチーフに注目できる。一つは桃源として南米、もう一つは雨。小林さんが「Chil」の初っ端のバースにすぐにそれらを紹介することが見られる。また裸の親しみの再帰もある。
聞いたところから、南米は一般的に日本住民にとても人気がある行き先らしい、少なくともイタリア住民に比べると。この文章にその傾向の理由を深く掘り下げるわけではないけれども、ウォンカーワイ監督の「Happy Together」という1997年の映画に偲ばれた。炳として、南米に移動するアジア人はもう既成の状況だったのだけど、ウォンカーワイの映画の環境の審美、光の魅力が必ず人々をその地域に惹ってしまったとされている。
ウォンカーワイの「Happy Together」を初めて見たら、「Paraphilia」の裏に思うしかなかった。「Happy Together」の南米は枯れて腐っている愛の場面である一方、「Paraphilia」の南米はもう咲いている愛の場面となる。ウォンカーワイが描いているアルゼンチンは香港の唯一の代替、いい未来を約束する地域に見えるが、やがて帰国することにした一人がいる。
「Happy Together」の二人の南米に行くきっかけは「ランプ面に描かれた滝を探しに行く」で、どうにかしてロマンチックで幻の決定。ある意味で、これは「Paraphilia」の旅のきっかけにも見えるではないだろうかな。まるで小林さんのバースのように感じる。(「keep me」の「水銀灯の中青い時間の蛹になろうよ」という一節が思い浮かんだ)
小林さんの愛しいボリビアがキーツのアルカディアみたいな場所、完全な調和で生きられる場所であるのに対して、彼と相手は「罪」を負う唯一の生き物。小林さんがその罪の重みを苦しむほど感じそうに見える。そのためカタルシスを思いっきり望んでいるだろう。
最後に、雨の意味をもっと詳しく見てみたいと思う。
不思議なくらい、この「keep me」の一節は二人が雨の降ることをただ内から見つめているというのを仄めかす。同じテーマのある詩を考えれば、イタリア詩人のダンヌンツィオの「松林の雨」の二人は松林の中で、土砂降りの中で、愛し合う。これを考えれば、「Paraphilia」は全然違うのに気付くしかない。
ダンヌンツィオによって、土を濡らす雨は二人の性交の隠喩だけでなく、自然と人間の相即のシンボルでもある。詩に描写された場面はバイタリズムのイメージ。ある意味で詩人と愛した女はカタルシスに至ると言える。
逆に、小林さんの雨は二人に触りはしない。二人が雨を窓際から眺めるとは清めが起こらないという意味となる。結局、小林さんがわかったみたいなことは:肉体の身体をしている限り、罪は存在するということ。
この避けられない真実の解決法は「Mer」に現れそうに見える。私的には、「Mer」は小林さんと相手のあの以前の世界とこの桃源の経験をまとめる楽曲である。そればかりでなく、「Mer」は、そのほろ苦い繊細さと叙情的なロマンチスムで、小林さんこそのお気に入りでもあると思う。「Paraphilia」が全体個人的な制作のように感じるのは本当だけど、他の曲以上に「Mer」の作詞作曲が個人的に感じるのは事実である。
「Mer」は、「para」と「dnim」の正気を歪める悪夢らしい記憶も暗黙的のうちに生かして、ずっと心に残っていく画像を描く。この二曲は作品の他の曲ほど愛に関連付けない感覚があるのだけど、実に一人だけの気持ちに集中する傾向がみられる。二曲とも悪夢のように語る意識と聞いている人の意識に棚引く。二曲とも「狂気」をテーマに「Paraphilia」の雰囲気に溶け込む。「dnim」の風景は「頭を取り巻く」逃げられない樹海、裸が弱くて恥ずかしくなる場所、彼だけの裸なのだから。メタフィジカルな世界に違いないけれど、猛烈なギターとドラムで物質的に感じられる。「dnim」に見かける愛は狂った世界のせいで一人でで沈んでいる人の相手への愛。その最後の「愛してるだけ」というセリフはどうにかして最後の言葉のように聞こえる。
「Mer」は回帰の歌、原始への回帰でなく、本当の世界へ。新目的地はまだ明確に決まっていないのに。「Mer」の二人は大切なことが分かった、あるべき姿の世界での生活ができないということ、それがありはしないから。「潔白に戻らないうちにアルカディアに隠れよう」と最初に思ったのに対して、「隠れるのはいつまで続いてもいいのだろうかな」と結局考えてしまう。
「Mer」の相手に届かない言葉は「耳を失う」ということにも触れるかもしれないのだけど、相手が聞きたくないわけでもなく、やはり二人のいるところには言葉がはかないだろう。
この疑問、円熟した未来への懸念。本当の世界に戻って、愛も枯れる可能性がある。いつか目覚める、彼と相手とも。そして、歌のエンディングが仄めかすように、またあてなき旅を始める。
目覚めると、雨がもう不思議な力をなくしてしまったので、傘をさして歩くべきだろう。
要すると、ノーベンバーズは、形而上の経験、理想的な陸地での生活と人心に祟る悪夢を織り交ぜてシンプルな声明を出すと思う。
「何があろうと、できる限り、お互いに守り合おう。」
約束なしの恋。罪だらけの人間には、出来過ぎた恋の話。
生まれ変われなかったにもかかわらず、新しい意識で二人は世界に向かう。こう述べたら一般的な不正に合わせたりしてきたと言いたいわけではなく、ただ若い知覚が少しずつ大人の知覚に変わってきたわけである。
頑固なイデアリストのままの大人。「Paraphilia」の作者、愛好家とリスナーの皆さんのように。