南部菱刺しとは
こんにちは。えとです。
今日はざっくばらんに 南部菱刺しについて語りたいと思います。
まずは、南部菱刺しが何で出来たのか。
士農工商の概念が生まれたのは奈良時代とWikipediaにもありますが、まぁ、身分制度があるのは、上質の絹を国民全員が着られて、頭の良い人悪い人関係なく、戦いの強い人弱い人もきにしなければ、生まれなかったものなのかなとか思います。ここら辺は私は学者でも何でも無いので、推測です。
まぁぶっちゃけると、農家がいなかったら米も糠も食べられない訳で、野菜だって育てる人がいなかったら食べられない訳です。
縄文時代よりももっと昔にムラで動物を狩ったりして生き延びてきた人間は、その地その地に定住して農家になり職人になり、いわゆる身分社会の中で生きることを選択したからこその士農工商かしらと思います。
士にあたる人より上位の人は絹も着れたのに(士でも上位の人は着れたかも)、農から下の地位の人は絹は着れませんでした。
寒い北陸にいるからとか、そーいうことは関係ないんです。絹は数が少ない=貴重だから上位の者が着るものだ、といつの間にか決まり、農家の人はいつの間にかその辺に生えていた麻で着物を作って生活をしていたそうです。
上位の人には上位の人なりの誇りで、下位の方たちが自分より上等な格好してるのが許せないとか、位で順序つけたがる癖は昔にもあったということですかね。
でも、特に北陸の方は、麻の着物だと冬が寒い。
というわけで、防寒のために刺し子が農民の冬服として用いられ、その後東北にも日本人進出していったあとに、津軽でこぎん、南部で菱刺しが行われるようになったとされています。
こぎんと菱刺しの違いは、単に目の数えで偶数刺しなら菱刺しで、奇数刺しならこぎんと言われていますが、昔の図案など見てみると奇数でも菱刺しの図案にあるものもあるし、逆もあるのです。
だから多分ですが、呼び方は違うけど、同じものだった可能性もあるんじゃないかしら、なんて思ったりします。
私は若いので昔のことはわかりません。笑
私が習った歴史は名古屋のことで終わりますからね〜…って、ジョークでなくてね。ホント、織田信長のことやって、名古屋市内だから桶狭間の合戦場跡とか行って、豊臣秀吉、徳川家康で明治突入ですから。
東北の歴史は東北人に聞いた方がいいですよ。
空想好きな私なんかは、かつて殿様同士が仲良しだったころにはこぎんやら菱刺しやらが存在していて、お互い切磋琢磨していた時期もあったんじゃないかなぁ、なんて思ったりするのが好きですけど。
あ、あとカラフルなのが南部菱刺しの特徴でもありましたが、ここ最近はこぎんもカラフルな糸を使う方も増えましたので、どちらにせよ、楽しんでちくちくするのが一番ですね。