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文学系Youtubeのおかげで、読めなかった本が読めるようになる。
「アサヒ 音楽と文学は色ガラス」というチャンネルで、ヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』を取り上げた回があって、とてもおもしろかった。
どこかバランスを失った構造ってのは、僕にとってはいつも心惹かれる。『ねじの回転』で主なストーリーテリングを担う女家庭教師。その女の張りつめた語りも、見るからにバランスを欠いていて美しい。
とはいえ、僕もどこまでもアンバランスさを楽しめるかというと、そんなことはない。すぐに限界を迎える。
たとえば『百年の孤独』のありえなさ感、ぶっとんだ非日常を前にすると、バランスを大きく崩されて、僕はとても不安になる。不安になるのは、自陣を失いそうになるからだ。
やがて、まるでばかにされたような気分になってくる。日本でつつましく暮らしている(はずの)僕らの方が、損をしているような気になってくる。だってマコンド村では、あんなことも、こんなことも、誰も気にしちゃいないんだから!
で、アサヒさん(いつもカラフルな服をしれっと着こなしてて、かっこいい)の解説を聞いてると、ぶっとんでるのもアリか。つう気分になってくる。ぶっとんだことを、誰かが口で説明してくれると、いいんだと思う。だから、文学系の動画はありがたいっすよ。
アサヒさんは動画の中で、喋り方がものすごく落ち着いていて、ペースがゆっくりでいいですね。声の質も、ちょっと不思議な感じで、軽いトランス効果があるような・・・・・・。
『百年の孤独』、僕も夏に文庫本買いました。僕が持っているのは三刷。発行から2週間しかたってないのに。すごいっすね。
ふと思ったんだけど、『百年の孤独』を一種のモキュメンタリ―として読むと面白い。こんなこと、あんなこと。珍奇で奇矯な証言が集められている。雑多な写真や手紙やプリントアウトがよれた紙のフォルダに挟んである(アメリカの映画でよく出てくるような、マニラ紙のやつ)。で、僕らは作家だったり、文化人類学者だったりして、その古いフォルダを開いて読んでいるところ・・・・・・。そういう妄想をすると、ちょいワクワクしませんか?