村上春樹をダシにして、読む。
僕は、レンジフードの明かりが小さくついているだけの、薄暗い台所で『街とその不確かな壁』を読んでいる。
書いてあることの、文字通りの意味よりも、書いてあることを、まるで庭の石をひっくり返して、そこから虫が出てくるのを眺める子どものように、向こう側、うらっかわを感じながら読んでいる。
この本を読むのは二周目なんだけども、今回は何だか清々しいような、しんとしているような、そういう感じがする。
不思議だ。
多分に、日本画家・中村恭子の「世界拒否」というスタンスが影響していると思う。
「世界拒否」というのは、世界を拒否するわけだけども、なんでもかんでも拒否するわけじゃなくって、「わかりやすい言葉や情報によってのみ構成された、括弧付きの世界の拒否」ということらしい。
この概念は含意がたっぷりあるので、さらっと説明するのは僕にはできないけども、とりあえず、村上春樹の、見かけ上はわかりやすい言葉のつながりをきっかけにしいて、僕にだけ立ち上がってくる世界を感じながら読んでいく。
言わば、村上春樹をダシにして読む。
郡司ペギオ幸夫という方がいて、彼は中村恭子の東京藝大の博士論文の指導にかかわって以来、共鳴するところがあるらしく、しばしば二人展などでコラボしているし、郡司の著作の多くは中村の装画である。
で、郡司の↓ 『創造性はどこからやってくるか』で、日本画で描かれる山、のっぺりとした山が持つ意味について中村と論じた箇所があって、平面的に描かれる日本画の風景は、「書き割り」なんだ、と。
で、その「書き割り」の向こうに何かがまだ続いている。そういう感覚。それが、創造性のキーだと。ざっくりしすぎな説明なんですが。
それで、僕が村上春樹を読むときにも、のっぺりした書き割りの風景があって、それを捲ると、向こうにまだ何かが続いている。そういうつもりで読んでいます。
↑ 中村恭子のこの本は、稀少本状態なんだけど、図書館にあるといいな。読みたい。