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宮澤ひなた「お母さんに『やると決めたらとことんやりなさい』と言われていた」(前編)| ひとり親家庭で励んだサッカー選手


 2023年FIFA女子W杯では5得点を決めて得点王を獲得、パリ五輪でもなでしこジャパンの一員として戦ったFW宮澤ひなた選手。現在マンチェスター・ユナイテッドに所属する世界屈指のアタッカーは、神奈川県足柄市のひとり親家庭で育った過去を持っています。
(記事:守本和宏 | 写真:薄田直樹)
 

◆何時に帰っても、絶対にお母さんはテーブルを一緒に囲んでくれた

兄と二人兄妹で育った彼女は、お兄さんの影響で3~4歳からサッカーを始め、地元南足柄の向田サッカークラブに入団。3年生の時に、両親が離婚を決断し、以降は母親に育てられました。その家庭事情は、彼女なりに理解していたといいます。

ーー 家庭の経済事情を意識するようになったのは、いつ頃でしたか?

宮澤
親が離婚した時には、お兄ちゃんも自分も物心がついていて、お母さんが大変だとわかっていたんです。お父さんがあまり帰ってこなかったり、夜遅いのを知っていて、「お母さん、辛いなら全然(離婚して)いいよ」という感じでした。2人ともお母さんについて行くと決めて、私が4年生、お兄ちゃんが中1になる時に転校した流れです。
 
ーー 悲観的ではなく、家族で一歩進むための決断だったんですね。

宮澤
多分、お母さんが辛そうなのを見て、分かっていたんだと思います。自分たちも小さいなりに、何か読み取っていたんじゃないかな。当時の記憶として、うっすら残っています。
 
ーー 実際ひとり親になって、経済面で困難を感じましたか?

宮澤
お母さんは、掛け持ちでパートを2つしていましたね。ずっと仕事に行っていたイメージがあります。
 
ーー 寂しさを感じる時もありましたか?

宮澤
でも、絶対自分たちが帰る頃、母は家にいたんですよね。家族の時間だけは本当に大事にしていて、私が何時に帰るか、お兄ちゃんが何時に帰ってくるかにあわせて、絶対お母さんはテーブルを一緒に囲んでくれていました。今も家にいると、そうなんですけどね。
 
ーー それは単純だけど、簡単にはできないことですね。

宮澤
「こういう時しか話せないから」って言って、ご飯も何回でも食べるし、いるだけでも一緒に机を囲んでいるような感覚でした。それはずっと小さな頃から一緒で、一人でご飯を食べているイメージがないんです。今思うと、それは嬉しかったですね。

◆一度だけ断ることになった海外遠征

自ら家庭の経済状況を把握する子どもの中には、遠征への参加を諦めたり、サッカー自体を諦める子も一定数います。宮澤ひなた選手にも、そういう気持ちはあったのでしょうか。
 
ーー 家庭の事情でサッカーを諦めようと思ったことはありますか?

宮澤
いや、お母さんには「やると決めたら、とことんやりなさい」と言われていました。だから、お金の事情で諦めたことって正直ないんです。それはお母さんが頑張ってくれたからで、だから自分も頑張れたのはありますね。
 
ーー 何か不自由はなかったですか?行きたいチームに行けなかったとか。

宮澤
「ごめん、お金出せない」っていうのが1回だけ、中学の時のトルコ遠征でありました。やっぱり片親で子ども2人がサッカーやってて、スパイクやウエアとか色々お金がかかる中、何十万も一気に出すのはキツいじゃないですか。それで、「ごめん!ひなた、行かせられない」って言われたのは覚えてます。
 
ーー その時、ひなた選手自身はどう感じましたか?

宮澤
自分の中では、「仕方ない」「行けないなら日本で頑張ればいいや」ぐらいで、特に重く捉えてなかったんです。でも、お母さんが、あの時行かせてあげられなくて後悔しているというのを、何かの取材で話していて。やっぱり周りが行くのに、自分だけお金の関係で行かせられなかったのは、気持ち的にすごく苦しかっただろうなって思いますね。
 
ーー でも、それ以外の合宿とかには行かせてもらえたんですよね。

宮澤
はい。ただ、お母さんも、私が小さなときに鬱とか顔面麻痺にもなっていたみたいで。私は覚えていないのですが、そういう面を見せなかったのも“強いな”と感じます。
 
ーー お金に余裕がない分、工夫などしていましたか?

宮澤
当時は別にスパイクのこだわりもなかったですし、遠くてもスポーツショップとかで、安いスパイクを探して買ったりしていました。私は“履ければいいや”ぐらいの感覚だったので、安い中で軽いのやカッコいいのを選んでいたぐらいですね。一応安い方がいいかなという意識があったぐらいで、特に苦労した感覚はないです。

◆自分のやりたいことで、親に負担をかけないのが一番の親孝行

順調に成長を遂げた宮澤選手は、日本トップクラスの選手として輝きを放つ選手となっていきました。そんな中で訪れる転機が、進学・就職です。
 
ーー 進路を決めるにあたって、経済事情を考慮したなどありますか?

宮澤
私が私立で、お兄ちゃんも私立なんですよ。私が通っていた星槎(国際高校)では、高校の活動だけじゃなく、トップチームにも参加していたので、何かしら出費も多かった。明細書をお母さんに渡すのが、申し訳なかったのはあります。
 
ーー でもお母さんは、何も言わずに払ってくれていた。

宮澤
お母さんも、そういう強いところに入れば、それだけお金がかかるとわかっていたんだと思います。私も、そこに決めたなら自分が納得するまでやりきりたいと思っていました。そのために「星槎に入りたい」という話を中3の時にしたのは覚えていますね。その時もお母さんは「それならやり通しなさい。ママはサポートするだけだから」と言ってくれました。

ーー 高校の後は大学にも進学されましたね。

宮澤
その頃にはもう代表も経験し、サッカー推薦で大学に入るのがベストだったんですけど、私はクラブチームで上を目指したかった。ただ、女子選手は男子ほど選手寿命が長くないので、大学は卒業しておきたかったんです。その中で検討して、プロからもお話は頂きましたが、ベレーザを選んで、近くの法政大学に通うことにしました。サッカーで結果がついてくると奨学金給付型とかもあるので、結果が出始めて自分でも良い方法を探しながら、少しずつ道が開けていった感じです。
 
ーー サッカーに打ち込むことで、色々な可能性が見えてきた、と。

宮澤
結果論ですけど、自分が今ここまで来て言えるのは、サッカーで結果を残すと、環境がついてくる。給付がもらえるとか免除とか、そこはプレーしている側しか頑張れない。お母さんは多分、子どもの後押ししかできないんですよね。だから、自分のやりたいことを貫いて、親に負担をかけないで済むのが、一番の親孝行だと私は思っています。

(後編に続く)

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