これが私の生きる道 その①
はじめまして
何かと自由奔放に生きている大阪在住 UMAです。
これから私がお届けする情報で、本当にたくさんの人に幸せになってもらいたいと思い『私が歩んできたSTORYと、人生をうまく生きるヒント』をこちらのnoteにみなさんに役立つ情報として紹介していきたいと思います
などなど
自分の人生において『少し思い当たるところ』があれば、是非最後までこの記事を読んでいただけると最高に嬉しいです。
もしかしたら私の記事で『貴方を含め、貴方の周りにいる人』の人生も変えることができるかもしれませんし
私に出会い、人生が変わった人が沢山 誕生していますので
興味がある人は猫のように絡んでいただければ幸いです。
そもそもUMAってどんな人なん?ってことを少しばかり自己紹介したいと思います。
UMAはこんな人(自己紹介長めです)
お父ちゃん(サラリーマン)とお母ちゃん(学校の先生)の子供として大阪に生まれる(4人家族で構成され 3才離れた姉が一人いる)
どこにでもいるような、ごくごく普通の幼少期を過ごし、通知表には『UMAちゃんはいつも落ち着きがないです』と毎回書かれる素敵な幼少期。
ついでに授業ではいつも先生から名指しで当てられるけど、友達はいつも周りに沢山いたと思います。
だけど、ある日を境に自分の境遇がゴロリと変わるキッカケがありました。
それは、いじめの始まり
矛先が自分に向けられる
友達がいじめられていたのを”助けたこと”により、私にまでそのいじめが及んでしまいまいました。
あれは忘れもしない 中学1年の夏
いつも通り学校の休み時間に友達と遊んでいたら、急に声を掛けられたのです。
UMA お前調子に乗るなよ!!
『授業終わったら放課後 体育館の裏にこいよ!』っていう悪魔の声・・・
え?何? 俺 なんかしたか?
よくわからない状態で、放課後体育館の裏に行くと・・ ヤンキーみたいなやついっぱいおるやん(笑)
10人ぐらいはおったかな・・・ いつも遊んでる友達も怖そうな形相で俺のこと睨んでいる
え? なんなんこれ?
そう思った次の瞬間 いきなり飛び蹴りが飛んできて
ボコボコにされた(ドラマとかによくあるシーンみたいなやつ)
あまり思い出したくない過去やけど
要するに、『イキってんじゃねーよ!!』っていうやつです
(今では笑話ですが、その時は本当に怖かったのを覚えている)
田舎のヤンキーあるあるで、
今思うと どうでもいい話ばかり まじでしょうもないww
それからというもの、もともと仲の良かった友達も(ヤンキーを怖れ)みんな僕から離れて行き、僕の暗黒中学生活が始まりました。
あの日以来、へちまもへったくれもない、めっちゃ面白くない学生時代を過ごしたと言う感じで
『ありのままの自分を表現すると、”イキってる”て言われちゃうので』、あれが”トラウマ”で結局何もできなくなり、ただただ、平凡に過ごす超つまらない中学の学生生活を送ったと言う感じ
でもそれはターニングポイントの始まりでした
黙々と大人しく勉強した甲斐あって、自分の行きたい高校に行くことができた。
まさにパラダイスやったわ(本当に)
頭の悪そうなヤンキーもいない、田舎臭い狭いオリの中で育った変な奴もいない。 俺のことを知っている人なんて少ない
つまりなんでも好きなことをすることができる❤️
たまたまお正月に実家に帰ると、高校時代のアルバムと共に文集が載っていたので、少しピックアップするとこんな感じ
ちなみにUMAの本名は前田である。クラスの人数は 40人ぐらい
中学時代にいじめられていた僕が、高校で水を得た僕はどのような高校生活を過ごしたのかは理解できると思います(笑)
暗黒の中学時代とは違い本領を発揮し始めた
本当に楽しかった高校生活
僕は中学の暗黒時代を過ごしたからこそ
本当に高校が楽しくて仕方がなかった
・毎日のように友達とつるみ夜な夜な遊びに行く
・毎日のようにバイクを乗り回し色んなところに出かける
・毎日のように他の学校の女の子と遊び 素晴しく充実した青春を過ごした
本当に水を得た魚のように・・・
週末は『バイト終わりから⇨カラオケに行き→オールを繰り返し、朝帰りから→部活動に参加する』という黄金パターンで、今でもびっくりするぐらい本当に充実生活を過ごしていた。
しかし、ハメを外しすぎて、高校生の時、酒とタバコで2回も停学になったのは内緒ね・・・笑 おかんと学校の先生によく泣かれてましたww
うちの高校は3回停学すると 退学になるので、我ながらよく耐えたもんやと思いますw
→きっと見えない力に守られていたのだろう
(おとんが先生によくお歳暮を送っていたのはきっと気のせいだと思う・・・)
それと同時に
実は高校生の時に羽を伸ばしすぎて、とある界隈ではちょっとだけ有名人になりました。
それは高校から始めたクラブ活動でした。
音楽好きの両親に育てられたUMAは 3歳から音楽を習わされ、それと同時に運動神経の良かったおかんに、無理やりスポーツ教室と体操に通わされていました。
その当時は全てが辛くて辛くて”辛い経験しか”ないけど、今ではその恩恵をたくさん受けているんちゃうかな?と思っています。
また、その甲斐あって小さい頃から運動神経がそこそこ良かったです。
暗黒時代を過ごした僕は、いわゆる”高校デビュー”って言う流行に属していました。
1年生の春
今までと何か違うことをしたいな〜と思っていた矢先、新入生歓迎の部活の勧誘で”ある運命の言葉”をかけられました。
君うちのクラブ(部活)にこない?
もっと、しっくりくる言葉遣いだったと思うけど、その言葉がUMAの人生を大きく変える一言でした。
初めは、陸上部の長距離でも走ろうかな〜と思っていたけど、非常に珍しいスポーツで『僕が昔から大好きな自然に関わるスポーツ』だったから、とりあえず見学に行きます〜♪という軽い返事から全ての歯車が動き出したのです。
あえて競技名は伏せますが・・・・・
高校からそのクラブを始めた僕は、入部して2週間で3年生の先輩を抜き、1年生の時から大きな大会で成績を残すようになりました。
3年間の実績は計り知れないけど
まぁまぁ大きな大会でも成績を残しました。
・近畿大会優勝
・西日本選手権準優勝
・全日本選手権入賞
・インターハイ出場
こんな感じで、”水を得た僕は”全く未開拓のジャンルでその界隈で成績を残しはじめたのでした。
この成績は当時新聞にも載ったし、学校始まって以来の快挙だったので、校長先生から表彰されたり、地元役所の市長室に呼ばれて、話を延々としたのを覚えています。
・暗黒時代を過ごしてきた中学時代
・快挙を成し遂げた高校時代
自分でもわかる 180度まるっきり違う人間の人生
クラブを引退した3年生の夏、その界隈ではちょっとだけ人気者になった僕のところに、連日のように大学の関係者がきました。
UMAさんをうちの大学に入れてくれませんか?
いろんな大学が推薦を持ってきてくれたと思います。
・関○外国語大学
・関西学○大学
・龍○大学
・京都○業大学
・近畿○学
・法政○学
・日○大学
・神○川大学
・関東○院大学
・青山学○大学
もっとあったと思うけど あとは忘れた・・・
とりわけ
スポーツが盛んでもない普通の高校で、いきなり名だたる大学から特別推薦枠(セレクション)みたいな奴が届くと、学校側もビビるわけで(今までそんなんないから・・・)
しかも、2回も停学になっている私にこんなに来ると・・・・・笑
わかるでしょ〜ww
悔しい思いがあったからこそ、考えが変わった
高校時代 その界隈ではまぁまぁ有名な選手になった僕だけど
高校生で一番大切な3年生の試合(インターハイ)で自分が納得できる成績を残せなかった。
本当に悔しかった
本当に悔やんでも悔やみきれなかった
周りの友達にも、学校の先生にも
期待されていたから余計にくやしかった
自分の青春をかけていたからこそ
余計に悔しかった
そんな、悔しがる僕を見て周りの人は、 そうかぁ・・インターハイの成績あかんかったんやな・・・・
でもなぁUMA、『結果が全てじゃないし、お前が頑張っていたのみんな知ってるで』だから元気出し〜や!!って言われた
その言葉は僕にはただ虚しく、何も響かない
・暗黒時代を過ごした僕(中学時代)
・魚のように水を得た僕(高校時代)
高校時代、周りからすると一見華やかに見えるけど、僕からすると暗黒時代の続きだった
なんでだろう、学校では褒められ、いろんな表彰状をもらったけど、「言葉にはできない悔しさと心にすっぽり穴」が開いている自分がいたのを憶えている
で、気付いたんですよ
自分の結果に納得できてないんやって・・・ね
それに気づいた時、僕はある覚悟を決めたのです。
俺 大学に行ったら絶対日本で一番になる!!って
それを決めた僕は強かった
無事憧れの大学に入ることもできたし、ここからメイクドラマが始まったと言っても過言ではない。
決断をし、目標がある人間は強い
この写真は僕が大学1年生の写真で同級生と一緒に撮ったもの
オンボロの合宿所で人生の厳しさを先輩から叩き込まれていた時代
未成年やけど タバコ吸ってるけどなww
今の時代だと確実に廃部に追いやられるぐらいの壮絶な厳しさが、365日毎日のように繰り返され
ここに書いているものはほんの一例で、実際には皆さんが想像を絶する以上の事が行われていた・・・・ ということ❤️
あとは想像にお任せします(笑)
本当に厳しい世界で
夜逃げした同級生もたくさんいた(本当に漫画の世界)
また同級生は精神的におかしくなったので、両親から 訴訟されるケースも・・・・・・あったような なかったような・・・苦笑
それぐらい厳しい体育会系のクラブだった
このような想像をはるかに超える厳しい状況下でも、大学に行ったら”絶対に日本で1番になる”と決めていた僕は本当に強かった
それは紛れもなく
高校生の夏に失敗を経験し 決断をしたから。
ストレス&暴行から 何度も吐血、血尿、血便をした
原因不明で何度も病院にも足を運んだ
体も壊し、頭にハゲもいっぱいできた
口の中は 毎日殴られてザクロのようになっていた
だけど、絶対に揺るがないマインドが僕にはあった
それは 必ず日本一になる事!
その結果
自分の夢が叶い、本当に日本一になったと言う事
・本当にたくさんの結果を出した
・雑誌にもいっぱい紹介された
・周りがザワつくぐらい結果を出した
そして毎回試合に出ると、必ずトロフィーと表彰状をもらった
なぜなら、僕が欲しかったものは、”あくまでも結果であって”、トロフィーとか表彰状とか自分の名前が残った成績表ではないから
トロフィーなんてものは僕にとってはただのガラクタで、場所を奪うだけの荷物でなんの役にも立たないし、『結果を出すまでのやり方とその手段を知っていると』、何度も何度も優勝できるし、当たり前のように入賞できることがわかっていたから
それよりも、もっと大切なものが欲しかった・・・・・
この時僕は、『結果よりも もっと大切なもの』がなんなのかよくわからなかった。
だけど今になって その答えを出す事ができたので、ここまで読んでくれている皆さんに、その答えを紹介しようと思います。
『日本一になるという目標』
その目標を達成した僕は
他の人が味わう事ができない幸福感を感じていた。
それは間違いない事実だし、今でもその話をネタにお酒を飲むことがでるけど、その幸福感はほんの一時のものであり、自分が夢にまで思っていたほどのものではなかった。そして今では過去の栄光なんてどうでもいい。
また、夢を達成してしまうとある現象が起こる。
それは目標がなくなり『喪失感を味わう』ということ
結果僕はどうなったのかというと廃人になってしまった。
結局、大学を卒業した僕は、東京から戻ってきて、大阪にある芸能関係の事務所で働くことになった。
全く未知の分野だけど、昔からやりたいことだったので、芸能関係をいくつもの試験を受けて、大阪にある企業に就職をした。
僕の同期は、今でも様々なところで活躍もしているし、普段みんなが見ているTV番組のプロデューサーをしていたりしている。
某ラジオ番組のパーソナリティー・みや○屋のプロデューサー・高○野球番組のチーフプロデューサー・某有名ジョキーの奥さん❤️
UMAだけ全く畑違いの仕事である・・・苦笑
今思うと、その会社は確実にブラック企業で、終電で家に帰れたらまだ良い方
だけど、この業界は ありえない人たちと当たり前に話ができるし、普段感じることのできないTVの裏側や芸能人の人間性が当たり前のように見れるから超刺激的な毎日を送っていた。
その時はそれはそれで楽しかったけど、あることがきっかけで会社を辞めることになりました。
人生には坂が 3つあることを知った
バリバリ大阪で働いている時に、母親の体調が悪くなり介護が必要になった。 またそのタイミングで会社からの転勤要請が告げられた。
UMA君 『今度東京に行って逸見○みりさんのマネージャをやってくれへんか!?』というもの・・・
僕)え? 辺見○みりさんですか・・・
僕は知っていた・・・業界では2世タレントでも彼女がややこしいのを・・
だから僕はその言葉を最後に、母親の介護に専念するために会社をやめました。笑
しばらくして、辺見○みりさんとキ○兄さんの結婚報道があった
その時、僕は思った・・・もしかしたらあそこで東京に行っていたら・・・辺見○みりさんとUMAが結婚していたかもと・・・苦笑
(実際 当時 周りからもそのようにたくさん言われました・・・)
そんな中
がむしゃらに働いていた青春時代、あるお坊さんに人生には3つの坂があるということを教えられた。
・登り坂
・下り坂
この2つのことはすぐに考えついたけど、3つめの坂はこの時わからなかった。
あれから12年後 お坊さんの話をたまたま聞いて知る事ができた
3つめの坂は『まさか』である・・・
第2のターニングポイントの始まり
また、母親だけでなく家庭環境の要因も重なり、しばらく正社員として仕事に就けないな〜と感じた僕は、車屋さんを経営している親戚にお願いして、洗車のアルバイトとして雇ってもらえるようになった。(時給は1000円)
看病(病院の送り迎えなど)をしながら僕は時間が有る限り、親戚のお店で洗車をし、その場を凌ぐだけのアルバイト生活をしばらく続ける生活を送っていました。
大学を卒業し、芸能関係の仕事をしている間も、ずっとオリンピックキャンペーンのオファー(オリンピックを目指さないか?というもの)がいくつかありました。
普通に仕事をしているので、オファーを断り続けていたけど、車屋さんでアルバイト(時間にゆとりがある)をしている事を聞きつけて、今まで以上に熱烈なアピールがあった。
それは企業からのファーではなく、大学時代の”仲間”からの連絡。
なあUMA、『俺と一緒にオリンピック目指そうや!!』 お前なら一緒にメダル狙えるから!!頼むわ〜
彼も僕と同じで、大学を卒業して自分の目標がなくなった友人。
彼にはオリンピックに出場するという新たな目標ができ、それを達成するために一緒に活動できるパートナーを探していたのだ。
そして、その白羽の矢が当ったのが僕だったというわけ。
彼も僕と同じで、業界ではかなり有名なスター選手だった。
もしかしたら、こいつと一緒にオリンピック目指したら、ほんまにメダル取れるんちゃうか・・・・
何度も何度も悩んだ
自分の生活(おかんの介護も含めて)を取るのか?
それとも出場できるかどうかもわからない、オリンピックを目指すのか?
僕は迷ったけど、結局オリンピックを選ばなかった。
なぜだろう
その時僕は感じた
これでよかったんやって・・・・・
それ以降 彼は僕にオリンピックの話を持ちかけてくることはなかった。
僕も、この行動がまさか自分自身にとってターニングポイントになるなんて思っていなかったし、それよりも生活をするのが必死だったから、彼の話は忘れて、一生懸命仕事をすることにした。
全ては必然なのかもしれない
そもそも車なんて触ったことないし、全く車業界で無知の世界の僕にできることは、与えられた車を洗車するだけ。
くる日も来る日も洗車をし続けた。
そして、どうなったかと言うと、『洗車のスペシャリスト』になったということ。
従業員が全部で23人いた会社で、バイトで入った僕が2ヶ月目にして車両管理部門の責任者にさせられた。
ただし・・・ バイト・・苦笑 ←正社員を断り続けていたのもあるけど・・・
2ヶ月前に入ってきた若者が、目上の先輩に車の洗い方を指導してるんやで ←今思うと実にシビレル 内容やん(笑)
そして、僕の歯車が動き始める
とある日、僕の勤めている店舗にお客様が来た。
だけど、一向にセールスマンがこない
(ちょうど忙しいタイミングでお店には対応できる営業マンがいなかった)
あまりにも誰も接客をしないので、ツナギ姿の僕は そのお客様のところに駆け寄った。
俺:こんにちは〜 ちょうど今営業マンがいないので、もうしばらくしたら係のものが来ますので、それまで車を見といていただけますか?
客:わかりました〜
こんな感じでどこにでもある一連の流れ。
そのお客さんと雑談話している時に、セールスマンがやってきた。
僕はそのお客さんを営業マンに任せて、自分のテリトリー(洗車場)へと戻ったのだ
しばらくすると、営業マンが僕のところに駆け寄ってきた
ちょっとUMA君 あのお客さんの接客相手してくれへんかな!?
え?なんで? あなたはの仕事は営業ですよね?って思わず聞いたのを今でも覚えている。
すると、あのお客さんはUMA君から車を買いたいと言ってるから、ちょっと行って〜!! わからんところはフォローするから!!
そう言われた僕は、ズタボロの雑巾のようなツナギ姿で接客に向かいました。
僕は、そのお客さんの元にかけより、素直に話をしました。
『すいません〜僕新入りでして 車の売り方わからないですけど、洗車の方法ならわかるんで聞いて下さい!!車の販売はセールスマンにお願いします!!』って
そしたら、やっぱ兄ちゃん面白いよね!! 車買うならこう言う人から買いたいわ〜!!!って言う事で
そのお客さん 僕を指名して、それだけで車を買ってくれました❤️
しかも2台❤️
なんでも職人さんの仕事で使う車を探していたらしく、まとめ買いしてくれたのだ❤️
初めて自分で車を売った。正直嬉しかった。
しかも営業という営業を知らないのにいきなり2台も・・・
その日の夕方 社長(親戚)にみんなの前で言われた 。
UMA お前 車の営業勉強しろ!!ワシが教えたるから!!
あの日以降、親戚に言われるがまま、僕は必死になって『車の営業』について学んだ。
今まで時給1000円で洗車していた僕
あの日 車を2台売っただけで、売り上げの7%(営業報酬)が担当者にもらえるシステムだったので、その日に7万円ほどもらったと思う。
洗車時代の給料半月分を たった1日で稼いでしまったww
それからというもの、僕は営業について必死に勉強した。
基本的なことは先輩に、経営については親戚から
だけど なぜだか僕にはしっくりこなかった。
営業成績はありがたいことに3店舗ある中で
2ヶ月をすぎたあたりからトップに君臨した
(月間販売台数50台以上は当たり前)
だけど、面白くないんだよね・・・・結果を出しても
そんな時にあるものに出会った。
インターネットとの出会い
その時僕は思った。
絶対にインターネットの時代が来るから これからはネットで車を売ろう!!
そこから僕はインターネットの仕組みを勉強し、どこよりも早くインターネット上にHPを自分で作ってみた
(今思うとかなりクオリティーがやばいやつ)
その当時HP作成外注に依頼すると1ページ50万円〜以上してたんちゃうかな?
HPの開設とヤフーオークションというシステムを使って(当時は画期的)車の販売を誰よりも早くにお店に導入して ネット販売を始めました。
この選択はやばいぐらいに大正解だった
車業界では、雑誌媒体のGOOやカーセンサーなどが主流だった時に、いち早く私達のお店はインターネットを取り入れた。
この時 中古車サイトのネットサービスはなくつまり入れ食い状態。
このタイミングで仕掛けられた私たちは本当にめっちゃ儲かったし、出品するだけで すぐに売れる状態は1年以上は続いたかな?
このタイミングで、僕は車を売りまくって、マジでめっちゃいい思いをした。
プライベートも私生活もめちゃめちゃ充実していたのは言うまでもない。
この時僕の仕事は、『洗車→営業統括責任者』に抜擢され、従業員に接客の方法やインターネットの方法などを教える立場を任されていた。
また、広告の誌面やWEB画面のDTP(チラシ作り、雑誌作り)も関わっていたので、UMAさんのお店、なんでこんなに売れるんですか?とよく中古車雑誌GOOやカーセンサーの担当者と話をしたのを ガストを見かけるといつも思い出します。
しばらくすると、僕たちのやっていた手法は徐々に周りの人達に認知されるようになり、僕たちのバブルはだんだんと収束を迎えていたが
何やかんやあっても 全てが順調に思えていた
そう あの日までは・・・・