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第7話 でんでん虫の悲しみ

はじめに

作家・新美南吉の作品の中に、
「でんでん虫の悲しみ」という話があります。

1998年にインドのニューデリーで行われた
国際児童図書評議会の基調講演で
上皇后美智子様が、この作品について触れられたことで
私はこの作品を知りました

その2年後には、愛知県半田市にある新美南吉記念館で
企画展が開催され、足を運んだ記憶があります

25年ほど前の話ですから、遠い遠い昔話ですが
現代の悩み多き若い皆さんにも、
ぜひ作品の意味を考えてもらえたらいいなと思います
では、さっそく…

第7話 でんでん虫の悲しみ

物語の中のでんでん虫は、
ある日突然、自分の背中の殻に、
悲しみがいっぱい詰まっていることに気づき、
友だちのもとを訪ね、もう生きてゆけないのではないか、
と自分の背負っている不幸を話します
しかし、友だちのでんでん虫は、
それはあなただけではなく、私の背中の殻にも、
悲しみはいっぱい詰まっている、と答えます

小さなでんでん虫は、
次々に別の友だちのところへ訪ねて行き、
同じことを話すのですが、
どの友だちからも同じ答えが返ってきます

そして、でんでん虫はやっと、悲しみは誰でももっているのだ、
ということに気づきます
 
 わたしばかりでは ないのだ
 わたしは わたしの かなしみを
 こらえて いかなきゃ ならない

 
この話は、このでんでん虫が、
もう嘆くのをやめたところで終わっています

上皇后美智子様による基調講演から抜粋(1998年 国際児童図書評議会)

私はこのお話を、当時勤務していた学校の卒業生に、
餞(はなむけ)の言葉として贈ったことがあります

卒業に際して、
ご家庭の暖かい愛情や周りのいろいろな人たちの支えに感謝し
これから地に足をしっかりつけて
新しい一歩を踏み出そうとしている若い人たちへの
ささやかな餞の言葉です

人がひとり生きていく、ということは、
決して楽なことではありません

この話の結末のように、最後に嘆くのをやめたでんでん虫を、
単純に「ああ、よかった」とは思えないような世の中の厳しさ、
生きていくことへの漠然とした不安を、
これからの人生でおそらく幾度となく抱くことでしょう

それでも、この話を読み終えた時には、
ほんのり暖かな安堵感に包まれます
どこか、なぜか救われた気がするから不思議です

話は変わりますが、
日本の冬の風景に欠かせないのは、ケヤキ並木だと思います

すべての葉を落とし、枯木立になって、
ひっそりと、しかし、凛とした佇まいで
来るべき新芽の季節に備えて
じっと風雪に耐えながら
私たちの日々の営みを
静かに見守ってくれているように思えてなりません

苦しくて、胸が張り裂けそうな時間を過ごしているあなた
周りに認めてもらえないモヤモヤに、苛立っているあなた
何をやってもダメなんじゃないかと諦めかけているあなた

誰にも平等に、季節は廻り
やがて春が来ます

ケヤキの木に新芽が息吹くころには、
でんでん虫のようにゆっくりでいい
悲しみをいっぱい抱えていてもいい

それでも顔を上げて、
少しずつ前に進んでいけるといいですね

「でんでん虫の悲しみ(全文)」

一匹のでんでん虫がありました。
ある日、そのでんでん虫は、大変なことに気がつきました。
「わたしは今までうっかりしていたけれど、
わたしの背中の殻の中には悲しみがいっぱい詰まっているではないか」
この悲しみはどうしたらよいのでしょう。

でんでん虫は、お友達のでんでん虫の所にやって行きました。
「わたしはもう、生きてはいられません」と、
そのでんでん虫はお友達に言いました。 

「何ですか」とお友達のでんでん虫は聞きました。
「わたしは何と言う不幸せなものでしょう。
わたしの背中の殻の中には、悲しみがいっぱい詰まっているのです」と、
はじめのでんでん虫が話しました。

すると、お友達のでんでん虫は言いました。
「あなたばかりではありません。わたしの背中にも悲しみはいっぱいです」

それじゃ仕方ないと思って、
はじめのでんでん虫は、別のお友達の所へ行きました。

するとそのお友達も言いました。
「あなたばかりじゃありません。わたしの背中にも悲しみはいっぱいです」

そこで、はじめのでんでん虫は、また別のお友達の所へ行きました。

こうして、お友達を順々に訪ねて行きましたが、
どのお友達も、同じことを言うのでありました。

とうとう、はじめのでんでん虫は気がつきました。
「悲しみは、誰でも持っているのだ。わたしばかりではないのだ。
わたしは、わたしの悲しみをこらえて行かなきゃならない」

そして、このでんでん虫はもう、嘆くのをやめたのであります。

新見南吉「でんでん虫の悲しみ」


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