『銀幕』 三羽 烏さん企画参加作品
(本文約3200文字)
その時、私はそうせずにはいられなかったのです。
その老女は、国道に沿った歩道横の植え込みが途切れた場所から、誰かに手を引かれているかのように片手を前に出し、もう片方の手で杖をつき、心許ない足取りで車道へ出ようとしていました。
私も彼女と同じ老人です。やはり健脚を有し駆け寄るとはいきません。
「待ちなさい、あなた、待ちなさい」と声を掛け、必死で彼女の腕を掴みにいきました。そばを通るダンプカーが、長く大きな音のクラクションを鳴らしながらも、スピードなどほんの少しも落とさないまま走り過ぎます。
なんとか老女を歩道の中へ抱え込むようにして戻しました。
「危ないじゃないですか! ダメですよ!」
私は少し語気を強め彼女に言いました。
項垂れる彼女は私の顔を見ようとはしません。そしてゆっくりと手を突きながら座り込んでしまいました。
私もダウンジャケットの上からでもわかる、彼女の細く華奢な腕を捕まえたまま、その場にしゃがみ込みました。
「どうしたんですか? まさか、死のうとしたわけじゃないですよね」
彼女は私の問いには答えません。年恰好からは70代くらい、私よりも少し上かなと思いました。白髪ではあるものの、セミロングの髪は美容室できちんと整えている感じがします。ダウンジャケットは高齢者に似合うファーのついたグレーの軽いものです。中には質の良さそうな薄手の緑のニットを着ていました。経済的に恵まれない老人のようには一見して見えませんでした。
「大丈夫ですか? どこか痛いとかありませんか? それとも具合でも悪いですか?」
やはり彼女は黙ったままです。もしかしたら徘徊なのかも、これは警察にでも知らせるべきかと私は思いました。そばを通りかかったご婦人が心配そうに声を掛けてくれます。
「どうしたんですか? 奥様? 具合悪いの? 救急車よびましょうか?」
ああ、そうか、救急車のほうが良いのかな? 私もなかなかに判断がすぐにできなくてこのご婦人に助けを借りようと思い立ちました。
「私の連れではないのですが、さっき道路のほうへふらふらと出ようとしたのを止めたんです」
「まあ、それは大変! 警察にも連絡しましょう」
ご婦人はその場ですぐに警察へ連絡してくれました。警察から救急車も手配してくれるということで、私たちは助けがくるまで側についていましょうということになりました。
「おばあちゃん、大丈夫? お名前は? お家はご近所?」
優しい口調のご婦人が訪ねますが、彼女は答えません。が、やっと彼女は顔をあげてくれました。年齢はやはりそれくらいかなと思いましたが、薄く化粧もされており、整った顔立ちで上品なお顔でした。どこかで見た感じもするのですが、それが自分の知り合いだったかどうかはわかりません。せめて名前がわかれば気付くのかもしれませんが。
国道を車が何台も通り過ぎていきます。それを彼女はじっとみているようでした。遠くからサイレンが響いてきました。ご婦人が「あ、警察がきたようだわ」と言ったので私もそうだとわかりました。
「向こうに行かないと」
彼女はぽつりと言いました。
「え? おばあちゃん、何?」ご婦人が訊き返しました。
「今しか会えないのよ」
彼女はまたぽつりと言いました。
「誰に会いに行くの? 道の向こうに誰がいるの?」
私は彼女の眼の先を追いながら訊きました。けれど車が多すぎて道路の反対側はよく見えません。そうこうしているうち、女性と男性の警官二人が到着しました。
「警察です、通報してくださったのはどなたですか」男性の警官が尋ねます。
私ですとご婦人が応え、状況を説明してくれました。
女性の警官が彼女の様子を見ながら、側に寄り添うようにしゃがみ込みました。「あ、佐伯さんでしょう? 洋子さんだよね」
女性警官が言いました。
遠くからまたサイレンが響いてきます。今度は救急車だなと私にもわかりました。
女性警官の口ぶりで、ああ、やっぱり徘徊か、捜索願いでも出てたんだなと私は思いました。多分ご婦人もそう思ったことでしょう。ご婦人は男性警官に説明をしながらも笑みがこぼれてました。何事も起こらず、無事保護してもらえたという安堵の笑みだと思いました。
まもなく、身内と思われる人たちもやってきました。警察から連絡があったのです。息子さんでしょうか、警察や我々に何度も礼を言いながらも彼女を気遣っていました。けれど「オダギリさん、オダギリさん」と何度も名を口にしていました。後から訊くと仕事関係の人だとわかりました。身内ではなかったのです。それでも私やご婦人はとにかく安心して「よかったですね」と何度も口にしていました。
男性警官から彼女はやはり徘徊であったこと、過去にも数回こういったことがあったこと。しかし車が行き交う国道を無理に渡ろうとしたのは初めてだったことを聞きました。
「あのおばあさん、昔、映画女優さんだったそうですよ」
私は男性警官の話に驚きました。小田切洋子さんというのが芸名で、佐伯洋子さんというのが本名なのだそうです。
私は小田切洋子という女優名を知りませんでした。しかし私が知らないだけで有名な女優だったのかもしれません。最初にどこかで見かけたような気がしたのは、顔だけは見たことがあるということだったのでしょうか。
助けてくれたご婦人も「知らない」と言っていました。それは昔の女優だからかもしれませんが。
警察からも感謝され、少々照れながら家路につきました。途中、今までの事を思い返します。私も身体のほうはおぼつかないようになっています。火事場のなんとやらで、とにかく止めないとと、強く思わなければ身体は動かなかったかもしれません。ぼんやり見ていれば彼女はあのダンプカーに轢かれていたかもしれません。勇気をだして良かったと思いました。こんな老人にも多少の力は残っているもんだと、我ながら感心しました。
家に帰って、パソコンで「小田切洋子」を調べてみました。やはり有名女優のようなサイトは見つかりませんでした。しかしいくつかの映画で、その名前がクレジットされていることがわかりました。もうすでに亡くなった、大スターの映画にも出ていたことがわかりました。映画サイトで視聴ができるようで、これもなにかの縁だと思い、その映画を観てみました。
正直に言うと、あまり興味をひく物語ではありません。それに彼女がどこに出ているのかも分からないのです。少し欠伸がでるような、そんな古い映画でした。
見るんじゃなかったかなと思い始めた時、面影のある顔が大写しになりました。「これだ、あの彼女だ」と思いました。映画の中の彼女は若く、美しく快活な笑顔で笑っていました。何となく見ていたことでストーリーが頭になく、彼女がどんな役回りなのかはわかりません。けれど彼女の笑顔はとても新鮮に見えました。
映画を観続けるうちに私はある場面で思わず腰を浮かしました。
道路を挟んで、大スターと彼女が見つめあっているのです。さっきと同じだと思いました。違うのは車が通っていないことでした。
彼女が叫びます。快活な笑顔で。
「私のこと好き?!」
大スターは答えません。
「ねえー! 私のこと好きなの?! どうなの?」
快活な笑顔は徐々に消えていきます。
「私のこと、好きじゃないの? どうなの?」
銀幕の彼女の顔が、私が止めたあの彼女の顔と重なりました。
大スターは彼女に背を向け歩き出しました。
彼女はそれを黙って見送り、映画は場面を変えました。
その後、彼女が画面に出てくることはありませんでした。彼女の出演はあの場面が最後だったのでしょう。
行き交う車の向こうに何を彼女は見ていたのか、私には想像しかできません。でも多分、それも彼女の人生のほんの一部分であり、私が知り得ない物語が彼女の脳裏には蘇っていたのかもしれません。
完
Superstar Carpenters
三羽 烏様からお誘い頂き企画に参加させていただきました。
三羽さん ありがとうございます。
こんなのでもよろしいでしょうか?
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宜しければどうぞ。
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