花枝さん Ep2 in Takarazuka
花枝さん(仮名)67歳(本当は72歳)は私の職場におられる現役最年長パートタイマーだ。
花枝さんは仕事上は凄く厳しい。自身がパート社員だからというような遠慮や忖度など一切ない。
昨年の5月頃だったと思うのだが、その年に新卒で入社した社員が、業務上のミスをした。そもそもまだ見習いで重要な仕事は単独ではできない。つまり先輩社員の管理ミスが原因だ。
それを花枝さんは皆の前で堂々とその先輩社員に意見する。
「アナータがちゃんと見てないからこんなことになるのよ。」
※アナータは『あなた』の意味だ。花枝さんはあなたと言う場合なぜか必ず『な』のあとが伸びる。
「いや、花枝さん。わかってるって。だから別に彼のことは責めてないし」
「そんなことは言ってないわよ。私はアナータがちゃんと仕事していないと言っているのよ」
その通り!
私を含めその場にいた皆が『花枝さん、正論!』
と頷いていた。
「だからわかってるって、俺の責任やから…… 」
「責任って、アナータ、責任なんかとれんじゃないの!責任者じゃないくせに」
「だから、俺からチーフに報告して…… 」
ここで失敗をした当の本人が
「すみません、僕の不注意で…… 」
「アナータはいいのよ、アナータは!私はこっちに言ってるのよ、アナータね、アナータは…… 」
『アナータ』の連呼に誰かが「ぷっ」とふき出した。
花枝さんは御歳のわりに耳は凄く良い。
「笑い事じゃないのよ、このミスは!」
仰る通りである。花枝さんは間違ってない。間違っているのは我々だ。ただ、『アナータ』の連呼はやめてほしい。
というように仕事に厳しい花枝さんではあるが、普段はお茶目なところが結構ある。
皆は仕事中、いつもはエレベータで移動するのだが、その時、私はたまたま非常階段を使って五階から一階に降りようとしていた。五階の扉を開けて階段に出ると花枝さんが座り込んでいる。
「どうしたんですか?」私は声をかける。
「ちょっと休憩よ、アナータは?」
「私は一段落したんで、気分転換で階段で戻ろうかなと思って」
「そう。アナータ、ちょっと座んなさい」
「はい」
私は花枝さんの真横に座るのは流石に気が引けたので、2段ほど上の段に腰かけた。階段を利用する人はなく外の風は心地よい。
これが私も花枝さんも60を優に超えた男女でなければ、ドラマのワンシーンのようにここから何かが始まりそうだ。愛はこういうシチュエーションからも始まるものだ。若ければ……
「イヌヅカさん…… 」
「はい」
「・・・・・・」
またか、変に間を空ける癖はなんとかしてほしい。
「タカラヅカみたことある?」
「はい? 」
「タカラヅカ、知ってるでしょう。関西に住んでるんだから」
「ああ、宝塚ね、宝塚歌劇ね、はいはい、ありますよ」
「アナータ、誰のファン?」
「いや、ファンというほど観てないからな~、大地真央が出てた時に観たことありますよ」
「それじゃ、結構前ね。最近は?」
「いや、最近は観てないですね~」
「私ね…… 好きなのよ……」
また、少し間を空ける。怒ってるときは立て板に水のような花枝さんの口調はこういう時、妙に黄昏るのだ。
「何、観たの?」
たぶん、その時のお芝居のことを聞いているのだと思うがもう忘れてしまった。
「いや~覚えてないです」
「そう…… 」
なんで間が空く? 嫌な汗が出そうな気がする。
ここで急に花枝さんが立ち上がり、階段を降り始めた。
ああ、もうこの話は終わりなんだな。やれやれ…… さあ、私も戻ろうと立ち上がり前を行く花枝さんを見た。
花枝さんは右の手を斜め上にゆっくりと上げ、なにやら口ずさんでいる。
「ん?」私はそれを聴こうと耳を傾ける。
「あ・・い・・・ば~こそ」
はっきりとは聴き取れない。
「あ~・・・・・あい~」
えっ? もしかしてベルばらか?
花枝さんは今度は左の手を斜め上にあげて、聞こえるか聞こえないかのギリギリで「あ~い、愛、あ~~~い」
そして階段を降りていく。
会社の非常階段は、宝塚の舞台の大階段に彼女の中で変わっている。
私は2階だか3階まで後ろをついていく。
その時、上の階の扉が開いて、誰かが話をしながら降りてくる。
うわ、と思い花枝さんを見ると、あげていた手はさっと下におろされ、わざわざ足音をたてて、さっさと降りて行く様子が見て取れた。
その後、花枝さんと宝塚の話はしたことがない。
テレビで大地真央さんをたまに見ると花枝さんを思い出してしまう。
「そこに愛はあるんか」とTVの彼女はいつも言うが、たぶんそこにあったのだと思った。
勿論、私へのものではない。誤解のないようにしてもらいたい。
Ep3へ続くと思う
花枝さんは実在の人物です。尊敬してます。いい人です。
このエピソードは実話をもとにしています。
Mrs. Robinson
Simon & Garfunkel
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