I have a vivid recollection of that day. 鮮やかにそして
思い出したようにカップに手を伸ばしすするように一口飲んだ。すっかりと冷めてしまっているのがコーヒーなことを口の中で思い出す。いや、思い出してはいない。今、わかった。コーヒーが目の前にあったこと。
「あなた、そろそろ支度をしないと遅れますよ」
妻はそう言って見慣れないダウンジャケットを持ってきた。黒色で誰もが着ていそうなものだし、確か自分もいつも着ているような気がするが、なんだか自分のものではないような気もする。
「新しく買ってくれたのかい」
「理恵子が買ってくれたやつよ。今日は寒いからね」
外に出ると薄ら陽の中の冷たい空気が手に染みこむ。マスクをずらして暖かい息で暖をとる。
「ポケットに入っていますよ」
妻の言葉にポケットを探ると手袋が出てきた。
バス停までの道をゆっくりと2人で歩む。通りがかりの何人かの人が会釈をし、妻がそれに合わせほほ笑み、会釈を返す。
「理恵子が待っているのか」
「そうですよ」
「少し遅れたかな」
「大丈夫ですよ。バス停はもう、すぐそこだし、まだバスも来てないわ」
「今日は何の日だっけ」
「其れは着いてのお楽しみ」
バスを待つ間、陽が待ち遠しかった。並び待つ人は肩を縮こませながら道の先を見ている。そこから何がやってくるのか。陽はそんなところから差してこないですよと言ってやりたい気がする。けど口は開かない。
「もうすぐ来ますよ」妻は何が来るのかちゃんとわかっている。
申し訳なさそうな気はなく、さも当然のようにバスが眼の前に停まった。順序良く人は乗り込んでいく。妻が「さきに乗って」と言った。明らかに暖かい車内には二人分の席を残していてくれた。
窓側に座り、通路側に妻が座る。アナウンスと同時にバスは丁寧に走り出した。
見慣れたようでもあり、はじめて見るような景色が流れていく。シートが暖かく守ってくれる。隣には妻が同じように外の景色を見ていた。
「あなたにね」
妻が呟く。
「あなたのところへ行った時もこうやってバスに乗ったのよ。あの時、もう、私ったらね、今日のあなたみたいに、家であれこれ考えてたの。そしたら時間がもうあまりないことに気が付いてね、焦って家を飛び出したんですよ。もうすぐバスの最終だって思ってね」
「色々考えてたのか」
「そうよ」
「それは大変だ」
「そりゃそうですよ、あなたに会いにいくかどうか、あの時行かなければ私はここにいませんよ。理恵子だって生まれてないし」
アナウンスが流れる。次のバス停の名前を告げている。知らない地名が流れ、知らない所に停まり、知らない人々が乗り降りする様子を眺める。
「あなたがあの時、アパートで待っていてくれたから会えたのよ。ギリギリの時間まで。だから私はここにいるんですよ」
想いを馳せる。アナウンスがまた流れ、知らない地名が告げられる。
そうか、夜行列車に乗り、転勤する地へ出発をする寸前だった。荷物を持って玄関で震えながら待っていた。来るか来ないか分からない人を。これを最後にしようと思っていたんだっけ。
「鼻が真っ赤になってたな」
「まあ、そんなことだけ覚えてるんですか」
妻は『嫌な人ね』と言って笑った。
外の景色が流れていく。あいにくの空はもうすっかり灰色に淀んでいる。
「落ちて来るかもしれませんね」
「そうだね」
いくつのアナウンスを聞いたか分からないが、妻が『ボタンをおして』と言って指さす。ボタンを押すとチャイムが鳴り赤く光った。
「つきますよ」
停留所の名前のアナウンスを聞き逃したが、妻に促されバスを降りた。寒さはまたやってくるが、手袋はちゃんとつけていた。
バスが走り去る。降りたのは二人だけだった。
「さあ、もう少し頑張って、すぐに見えるわ」
二人でゆっくりと歩む。バスの後ろ姿は赤い眼差しをくれたあとに振り向くようにしながら角に消えていった。
「あれに乗ってきたんだな」
「そう、あの時の私は、バスを見送る余裕なんてなかったけどね」
妻がまた笑った。そして腕をさりげなく絡めて歩を合わせる。
広い駐車場が見え、落ち着いた外装の二階建ての建物が現れた。
入り口の扉の前で黄色のダウンを来た女性がこっちに気付いたのか手を振ってくれた。
「理恵子か?」
「そうですよ」
「いらっしゃい! 寒かったでしょう?」
「ああ、今日は寒いね。 元気だったか?」
「うん、元気、元気! 私は元気だけが取り柄だからね」
笑顔以外に何も表しようのない表情に安心する。この子は病弱だったが立派になってくれた。
「さ、入って、中は暖かいよ。もうすぐ歓迎会もはじまるし、クリスマスパーティーも併せてだからね。さあ」
「ああ、今日は、クリスマスか」
「そうよ、何? 何の日だと思ったの?」
「いや、何の日だったかなと、母さんの話を聞いてたんだ」
「へへ、お母さんとのアツアツぶりをあとで聞かせてもらいますからね」
「嫌だわ、それは秘密ですよ」
妻と理恵子は笑った。
「あ、落ちてきた」
あたりに白い種子が舞い落ちる。その花を咲かせるのにそう時間はかかるまい。
「ホワイトクリスマスになりましたね」
妻が微笑んだ。
「あの時もそうだった」
「そうですよ、なんだ、他のことも覚えているじゃないですか」
「そうだったかな……」少し照れてしまった。
さあ、と理恵子に促され、玄関ロビーに入る。大きなクリスマスツリーが出迎えてくれている。クリスマスソングがロビーに控えめに流れている。
そうだ、あの時、二人で向かった駅のロータリーにもクリスマスソングが流れていたっけ。自分たちの為だけのクリスマスソングのような気がした。
「今日のお加減はいかがですか」
「おかげさまでいいようですよ。こうやって頑張ってバスで来れましたし」
「ではお部屋の方に先にお連れしましょうか」
「ええ、ありがとうございます。ただ、もう少しツリーを見させてやってください。きっと主人は今、大切なことを思い出している最中だと思うの」
恋バス 矢井田 瞳&小田 和正
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