『夜行バスに乗って』 豆島 圭様企画参加作品
(本文 約4300文字)
高速道路灯のオレンジの仄かな光が、輝きを増しては繰り返し通り過ぎる。暫くあとに青白き浮かぶ光球が今度は続き、進路を違わぬように示し続ける。
僕の乗るバスはそれらに沿って迷うことなく先を急ぐ。視線を少し下げると先の方から急ぐ光が、眩しくいくつも飛び込んでくる。それらは僕が元にいた過去の場所へ向かっているのだろうが、彼らにとってそこは未来のあるべき場所だろう。今、すれ違う一瞬が僕らと彼らの現在で、それもすぐに視界の端へ次々と消えていく。そして各々の過去になる。
あの時、僕はいつもと何も変わらない帰路で足を停めた。
「春と風林火山号に乗って新宿に行こう!」
春色の香りに誘われ写る女性の笑顔。
帳面駅発、バスタ新宿行きの夜行バスを案内するポスターが駅の自動改札の横に貼られている。
東京には仕事以外で二度訪れたことがあった。その頃、僕は確かにあの街に憧れていたのかもしれない。まだ自分が何かに成れると信じていた頃。
一度は大学受験、そして二度目は就職。結局、そのどちらのチケットも僕は手に入れられなかった。打ちひしがれた僕に母は優しかった。母子家庭で苦労して育ててくれた母は、その後、地元での就職を決めた僕を大層喜んで涙を流した。
僕の中で何かが達成され、何かをあきらめた時だった。
ポスターの彼女の視線は、只々、春を迎える希望を見つめているようだ。
僕には関係がない。そう思いポスターと別れた数日後、いつもより早い時間に帰路をたどる僕は、きっかけなく駅のバスロータリーのチケットカウンターへ迷い込み、気づけばその日の夜行バス『風林火山号』のチケットを購入してしまっていた。
バスロータリーの待合室は平日の為か、さほど混雑はしていない。壁には例のポスターの彼女が微笑んでいる。なぜ今、ここに居るのか説明できない僕に、彼女は何も言わずただ春を装っている。
会社へ『体調が悪く明日は休ませてください』と電話をする。普段そういう事のない僕に、つい一時間前に帰宅の挨拶を受けた電話口の上司は、たいそう心配してくれていた。『誰でもこれくらいの嘘は許されるだろう』わざわざそう言い聞かせてまで、何のためバスに乗り込もうとしているのだろう。待合室のベンチシートで行き交う他の乗客たちの目にできるだけとまらないように俯き、発車時間をひたすら待ち続けた。
22:45、発車案内が流れ、『風林火山号』が3番乗り場にて乗車が開始されることが告げられた。僕は他の乗客の流れに合わせ乗り場で順を待った。バスの乗車口で乗務員がチケットを確認する。僕がチケットを差し出すと、『ありがとうございます』とチケットを受け取ったのは女性だった。
「お一人様、本日のご購入チケット、確認させて頂きました。ご乗車ありがとうございます。お客様は6Cのお席へご案内です。進行方向右窓側です」
笑顔でそう案内する彼女は運転手なのだろうか、制服らしきグレーの上下に淡いグリーンのネクタイを丁寧に、且つ、しっかりと結んでいる。
「ありがとう」彼女へ小さくそう伝えた。
チケットを返してもらい、バスへ乗り込む。数段のステップを上がり車内を伺うと、3列あるシートはほぼ埋まっていた。6Cの席は中ほどのトイレへ降りるステップの後ろにあった。利用する他人の気配が都度するだろうが、ステップ側には間仕切りがあり、カーテンで通路側は仕切れるので他者の目線は遮れるだろう。当日に買ったチケットであるから文句は言えない。残席は2席だけだったのだから。
荷物は仕事用のバックだけ。待合時間に買ったベーグルと水をその中に入れている。夕食もとっていないが空腹感はない。会社へ嘘を言った少しの罪悪感と、家で待つ母親へ『今日は帰らない』と理由も言わずに切った電話の大きな後味の悪さに食欲など勝つわけもなかった。
そろそろ出発かと思われた時に、隣の席の老婦人と眼があう。
「お仕事で新宿へ行かれるの?」
「ええ、そんなところです」
「私はね、孫に会いに行くんです」
老婦人は柔らかな口調と表情で、目線を自分の手に落とし、そう話す。
「そうですか」
僕はもう寝ているであろう母親の姿を思いうかべながら、彼女に返事をした。
「もう、今回が最後かなと思ってね」
「そんなことはないでしょう。夜行バスはお身体にさわるかもしれませんが、新幹線なり、飛行機なり、東京へはもっと楽に行く方法もあるわけだし」
そう言って彼女に関わろうとしていることに自分で驚く。隣り合わせに座る彼女は、このカーテンを閉めれば僕にとっていないのも同じなのに。
「夜行バスに乗るのは最後かなと思ってるの。この歳だもの、身体に堪えますよね、まったく。あなたの言う通り、新幹線が楽よ。けどね、高いじゃない? そうそう行けないわ」そういって彼女はまた柔らかな笑みを浮かべる。
「それはそうですね。でも、まだまだ行けますよ。きっと」
「そうね、あ、ごめんなさい。つい、話しかけちゃって、年寄りの悪い癖だわ」
「そんなことない……」そう言いかけた時、若い男性が慌てて車内に乗り込んできた。黒のパーカーのフードを深くかぶり、僕の斜め前4Bの席を見つけると急ぎカーテンを閉め閉じこもった。
待っていたかのように車内アナウンスが流れ、出発が告げられた。さっきの女性の声のように思える。やはり運転手だったのだろうか。
「おやすみなさい、ごめんなさいね」
囁くような声で彼女は言った。
「いえ、こちらこそ、おやすみなさい」
そう言って僕と老婦人はそれぞれにカーテンを閉めた。
高速道も街中を抜け周囲に明るい夜景が見えなくなると、併せ道路灯も少なくなる。バスの中も照明が落とされ暗闇の中を浮かび進むような気になる。僅かとは言えない走行中の振動も、慣れれば眠りを妨げるほどでもない。けれど僕は眠れないでいた。
そう言えば就職面接も、前日に夜行バスに乗って行った。大学は家から通ったが仕事は東京でと思っていた。僕を試せる最後のチャンスなどと、うそぶいた。母は何も反対せずただ応援してくれていた。しかし僕は自分が言ったチャンスをものにできなかった。
「残念だったけど、まだ連絡のない所もあるし」
地元を離れることができないことが決定した時、母はそう言って僕を慰めたが、僕は僕でその母の表情に一瞬の安堵が見えたことを忘れないでいる。
02:00、サービスエリアに到着し休憩時間が設けられた。一時的に通路の照明が控えめに点けられる。外の空気を吸おうと席を立とうとした時、隣の老婦人がカーテンを少し開け、前の方を伺う様子が眼に入る。
「出られるんなら、お先に」僕は小声でそう声を掛けると「ええ」と彼女は答えたが席を立つ様子はない。譲り合うのも後ろの客に迷惑かと思い、先に乗車口へ歩こうとした時、ゴトっと何か重いものが通路に転げ落ちた音がし、目の前の通路に拳銃のようなシルエットが薄暗い照明に浮かびあがる。僕が通常ではあり得ない情景を否定も肯定もせぬうちに、4Bの乗客らしき手が素早くそれをカーテンの内に取り戻した。
僕は何事も周囲にも知らしめるでもなく、ごく普通にバスを降りた。そして今しがたの出来事を何とか整理しようと努めるが、早くなる呼吸と、まだ少々冷たい外気も手伝って身震いが激しくなる。
「ご気分が優れませんか?」
後ろから運転手の彼女が声を掛けてくれた。僕はさっきの事を彼女に言うべきだと振り返ると、隣の老婦人が彼女に話しかけていた。
「この方は夜行バスに乗られるのが初めてで、よく眠れないようですのよ。ね、少し外の空気を吸って、暖かい飲み物でも一緒に買いに行きましょう」
そう言って、やはり柔らかな笑顔を見せながら僕の腕を取り、「さあ」とサービスエリアの建屋に誘った。
「あの、すみません、実は僕……」先ほどのことを運転手に伝えなければならない。そしてこの人達の安全も何とか確保しなければならない。
「いいの、私も知っています。それに私達は安全だし、バスもちゃんと新宿へ着きます。何も起こりません、だから……」
老婦人は僕の腕をぎゅっと握ってそう言った。
「何も起こらないって、なぜそんなことが言えるんですか。あなたも見たんですね? あれは拳銃でした。あの4Bの客、若い男だったと思うんだけど、絶対に普通じゃない! 警察へ連絡します」
僕はスマートフォンをスーツの内ポケットから出そうとする。
「やめて、あれは本物じゃない。それに、あの男は…… あの子は私の孫なの。これには訳があるの。絶対にあなたやバスの皆さんに迷惑はかけないし安全よ。ちゃんとバスも到着する…… 後生だから、お願い、連絡するのはやめて……」
そう言って老婦人はその場に泣き崩れんばかりだった。僕は思わず彼女の肩を抱き、近くのベンチへ座らせた。
出発の時刻が訪れ、無言の僕らはバスに戻った。そしてそのままカーテンを閉めバスは再び走り出した。僕は眠れるはずのない時間を過ごす。彼の危うさを考え、老婦人の涙を思い出した。何故か男が僕に思え、老婦人が母に思える。結局、何もできない僕に、隣の老婦人は安堵の表情をみせるのだろうか。
次のサービスエリアでの休憩時、僕は席を離れなかった。カーテンの隙間から隣の老婦人と4Bの男の様子を伺っていたが彼女らも席を離れなかった。そしてまたバスは走り出す。春を迎えるというこのバスが白み始める首都高に差し掛かる頃、僕は少し眠っていたようだった。
外の景色もはっきりとわかるまで空が明るくなり、一日1500台近くが発着する巨大ターミナル『バスタ新宿』に到着した。彼女の言う通りバス内では何も起こらず、僕たちはもうすぐ朝日を受ける東京に降り立った。
「ご乗車ありがとうございました」運転手の彼女の声を後ろに聞きながら老婦人の姿を探す。老婦人は一番最後にフードを深くかぶった男の腕をしっかりと握りながらバスを降車した。男は黒いリュックを背負わずに前に抱き抱えていた。
僕は何か声を掛けようとしたが何も言えず、老婦人と男も無言で僕の前を通り、京王線の乗り換え口へと去って行った。
僕は二人の姿が見えなくなるまでその場に佇み、すべての乗客を降ろした『風林火山号』も見送った。
『バスタ新宿』では夜行バスを降り立った沢山の人々が其々の目的地に向け歩き出していた。
老婦人と彼はこれからどこへ行くのだろう。もうすでにバスは走り去り、昨夜のことは過去でしかなく、彼女らのその先を僕は知る由もない。
そして僕はこれからまた元の居場所へ戻る。
そこは僕の過去ではなく僕の未来のはずだ。
完
『今日までそして明日から』 吉田拓郎
豆島 圭様の企画「夜行バスに乗って」に参加させていただきました。
豆島先輩がイメージされている作品とはかなり趣が変わってしまったかもしれません。少なくとも春!スタートじゃないか…… ま、バッドエンドじゃない感じなのでお許しください。こういう前向きもある。