目で見るビジョンの難しさ〜おもちゃの世界で見えるようになった理由〜
今ビジョンで見ると、大体、おもちゃの世界や絵本の世界のようなそんなものでおおよそ現れてくることが多い
見えないものをユーモアなビジョンで感じ取るということは、そういえばいつから起こっていたのだろうか、そうたどってみると、一番遠い記憶で、強烈なエピソードがある
おそらく、あの事件をきっかけに、優しいおもちゃの世界や絵本の世界に無意識に置き換えて“見る”となったのではないかと思う
そのまんま透視してみたらいいと思うかもしれないけれど、“見える”というのはとても大変なことなのです
私が6歳か7歳の頃、ある事件が世間を震えさせました
幼児の女の子を殺害してダンボールに詰めて自宅に届けるという連続殺人がありました
あの頃、(信じてもらえないかもしれませんが)私は「新聞」をすでに自分で読んでいて、同じ歳の子供の悲惨な事件を新聞で読んで衝撃を受けたのをはっきり覚えている
特技=速読 というのも、実は大人になってから気づいたけれど、よく考えたら、小学校に入る前にはすでに漢字を読んでいて、この頃には「辞典」を傍に置いて、知らない言葉があれば調べながら、新聞を一人で普通にペラペラ読んでいたのです。今、私自身が親となり、すでに当時の年齢を通過して大きくなった自分の子供たちを見て初めて自分の異様さに気づくという・・(笑)
新聞でこの事件が一面記事で書かれたとき、びっしりと書かれた文字はすらすらと読めるものばかりだった
自分と同じ歳の子供がこんなことになってしまった
毎日書かれている新聞を読むたびに、
女の子だけなんて、なぜなのだろう(ここがやはり子供らしい)
新聞を読みながらホラー本(ミステリー系もすでに読んでいた)を想像しながら、こんなことが現実にあるのだと、そんなこと本当にあるのだろうか。
恐ろしい、信じられない、大人は一体どういう生き物なのだろう。なぜ大人は人を殺めるのだろう。大人になるってなんて恐ろしいんだろう。自分もそうなってしまうのだろうか。こんな悲しい大人になるかならないかは何で決まるんだろう。そうぐるぐるしながら新聞をめくると、
写真が大きく出ていた。
それはその、ダンボールの写真だった。
その写真を見たときに、パチっとスイッチが入り、一気にその世界が広がって“見えて”しまったのだ
私がぐるぐると考え、その世界に入り込んで読んでいため、見えないエリアで完全に世界が繋がってしまったのだ
被害者の家の人の「目」となってしまい、ダンボールを見たところから開封するところ、その後のこともまるで私がその体の中に入っているように「見えて」しまったのです
その人になりきって体験してしまい、子供の私には理解できない、正確には処理できない映像が全部、雪崩れ込んできて、広い空間にポツーンと時間が止まるような感覚になった
言葉になどできない
(今、思うと、言葉にすることは関係者への侮辱であると思ったという表現が近いような気がする)
そんな思いでいっぱいになるほど、その体験と感情というのは「誰も再現などできず、誰も共感などできない」
たった6歳、7歳の私でもそう分かるようなものを“見て”しまったのだ
全く知らない家族に起こった悲しみを、遠くにいる一人の私が、まるでその家族として体験してしまった
悲しくて、悲しくて、世の中には、こんなにも悲しいことがあるのだと、そうとしか言えず、
あまりの感情に、ウォンウォンと泣くしかなくて、かわいそうで、かわいそうで、泣いてその“思い”を表現するしかできないのだと
そうやって、涙で吐き出して、時間をかけて向き合っていくしかないのだと、たった6歳、7歳で感じた「自分の子供の変死を見る」ことに、
こんな気持ちは誰一人として味わうことも、知ることも、感じることも世の中にあってはいけない
ただ、ただ、そう思うしかないほどの信じられない空間だった
なんて人間は悲しいのだろう
なぜこんなに悲しいことを経験しないといけないのだろう
なぜ人間は生きているのだろう
そう思うのと、もう、そんなの関係ないと言わんばかりの遺族の悲しみとその後の現実の暮らしが“見える”
夕方のニュースで毎日のように報道されるたび、あの映像が出てきて、あの悲しい海がやってきて、夕方になるたびに、恐怖に震えてものすごい泣き声で1時間以上泣き続けるという・・もうね、周りの大人たちは、私が頭がおかしくなったのだと言う話ばかりをしていて、誰のせいだ、と情けない大人の議論をしているのを聞いてまた悲しくなる。
なぜなんだと問い詰められても、口が裂けても言えない。
その理由はひとつだけ
あの悲しみはもう誰一人として味わうべきものではない
誰一人としてあれを表現できる人などいないのに、言葉足らずが語ることなどできない
そう思ったから、
周りの大人たちは、ダンマリを決め込む私にうんざりしただろうと思うが、私なりの最大限の「知ってしまった私のできること」だったのだ。
結局、犯人逮捕で顔が出た途端、また恐ろしい映像や感情がどんどん見えてしまった
見えたものを寝ているときに夢で再編してしまうのか、今度は自分が全く同じことをされて、死ぬと言う夢を何度も見た。
本当に苦しくて大変であった。
月日が経って、心が落ち着いてきた頃、見てはいけないものを見てしまったような、傷ついた心をどうやって癒やそうかといつも考えていた
悲しい気持ちが襲ってきそうなときには、いつも読んだ本を空想しては、楽しかったストーリーの世界に自分を置いて、まさに現実逃避である(笑)
まあ、そんなこんなで、読書量がかなりあったからか、世の中の悲しいこと、汚いこと、怖いこと、そんなものは全て本の中の登場人物に置き換えてストーリー仕立てにして自分の中で受け入れようとしたり、逆に、新たに本を読むたびに、おや、この登場人物って〇〇に似ているかも!なぜそう思ったんだろう?と分析しては、その共通項を探り、ピンときた理由に繋げて人を理解するための分析ツールとなった
そんなことばかりしていたから、なんだかおかしな本の世界、おもちゃの世界として、人が見えるようになってきて、いつの間にか、見えない部分から感じるものは「自分の心を守るため」に優しくてユーモアのある世界での表現でしか見えなくなっていた。と言うのがビジョンの実際のところである。
まあ、だから結構、、テキトーだよね。とも言える。
自分の体のどの部分にそんな変換機能があるのかは「謎」であるが、おそらくあの事件の時のショックで私自身が「生身でそのまま見えること」を完全に拒否したのではないかな?と思う
まあ、、でもさ、そのほうが見る方も見られる方も安心だよね!!!みたいな。
全部、丸見えだったら嫌でしょ!!(笑)
今日のパンツ何履いてるのか分かっちゃいますよ。たぶん。(爆笑)
いやだそんなの!
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