ざっことドジョウと私
ザリガニを食べたことのある私でも、ドジョウは食べたことがない。
柳川鍋には江戸っ子の粋なイメージを抱いているものの、どうにも手が出ない。
以前、うちにはときどき、ざっこ屋さんが来てくれていた。
「ざっこ」とは、「雑魚」のこと。
いろいろな種類の小さな川魚や川エビが、ビニール袋にたくさん詰まったものを、ざっこ屋さんは売りに来た。
自転車にそれらを積んだおばちゃんが、えっちらおっちらやって来た。
買い求めた母は、川エビを乾煎りしてから、酒と塩で炒めた。
ざっこは、しょうがと酒とみりん、砂糖に醤油で煮た。
ざっこは幼い私の口には合わなかったものの、川エビはぱりぱりとしたあとに塩気の効いた出汁が口に広がって、美味だった。
ざっこも川エビも活きが良く、ビニール袋から出して洗うときに、ピチピチと動き出すのが、たまらなくおもしろかった。
ざっこの中にはドジョウがまぎれていることもあって、小さかった私はドジョウがうねうね動く様子に見入った。
ドジョウがいたところで、異物混入だのなんだの騒ぐはずもない。
そのまま、ざっこと煮て食べてしまうのが普通だ。
けれど私は、ドジョウかわいさのあまり、ざっこの中から彼、彼女を救った。
そして、きんととさん(うちでは金魚のことを幼児語で、こう呼ぶことがよくあった)の水槽に入れ、飼うのであった。
ドジョウは働きものだった。
ヒゲだらけの口を開けて、水槽の砂利の中のゴミをパクパク食べて、毎日毎日、掃除をしてくれた。
きんととさんを見るよりも、くねくね動くドジョウの働きを見るほうが、なんだか楽しかった。
そうなのだ、ドジョウは私にとってペットという分類になるのだ。
だからどうしても、ドジョウは食べられない。
ザリガニもペットだった時期があったのに、お祭りの打ち上げで地元の料理屋さんに頼んだものを食べたことがある。
だからドジョウだって、いつか食べる日が来るかもしれない。
けれど、柳川鍋の響きになんとなく憧れを抱いている者としては、憧れは憧れのままでいい、そんなふうにも思っている。
ところで一昨年の秋に知り合いから、ざっこと川エビをたんまりといただいたことがあった。
舟を出してもらって川で捕ってきたの、と。
青いバケツいっぱいに入ったそれらを、玄関で鍋に三分の一ほどあけたら、ピチピチ跳ねて逃げ出した。
翌日、三和土で川エビが3匹ご臨終なのを発見したときには驚いた。
来客に見つからなかったかと、思い返してはヒヤッとした。
玄関を開けたら足元にエビが死んでいる家は、そうそうない。
鍋いっぱいのざっこも川エビも、私には気味が悪くて洗えず、触ることもできなかった。
まだ今よりも元気だった母が、洗い、煮て、あるいは乾煎りしてくれた。
ドジョウはいなかったが、いたところで今の私は触れないし、きんととさんもいないから飼うこともない。
母が煮てくれたざっこを、意を決して、あのときはじめて食べてみた。
金魚のようなフナのようなのや、小さなメダカみたいのや、とにかく何の魚か正体不明で怖いのだけれど、えいやっと勢いで食べてみたら……あらまあ美味。
甘じょっぱさに、しょうがの香りが合わさって魚の生臭さを消し、うまみを際立せている。
大人になっていた味覚に、歳を重ねたことを思い知った。
そうか。
ざっこを食べたのだから、やはりいつの日か、ドジョウを食べる時も来るやもしれない。
諸行無常で、何があるのかわからないのが、人の世の常なのだから。
そんなことを考えつつ、働き者のドジョウの愛くるしさが、私の中によみがえるのだった。