#13 ナンバーワンということ、TC1 Day10と銀座並木通りの日本一バーテンダー
倦怠感と頭痛、内臓のモッタリとした不快感。絶不調。
5時に目覚めてから、すでに、二度寝を2セットしてみたが、気分はまるで晴れない。
去年、がんの手術をする前までのワタシなら、「ああ…、酒は呑んでも、のまれるな」とか、「後悔先に立たず」と呟いて、前夜の暴れん坊将軍(無論、自分のことだ)から結果する二日酔いと断定するところだが、残念ながら、今朝のそれは違う。
色々と相談に乗ってくださっている病院の先生に、毎度、ご迷惑を顧みず、ショートメッセージを送ってみる。有難いことに、ほどなく、ご返信を頂いた。
「骨髄が血液を作るのをやめていましたから。今、身体が、頑張って元に戻ろうと、一生懸命、血液を作っているところです。大体、3週間で元に戻りますから、あと少し、ですね」
昨日、ものすごくカッコいいクルマに乗っていて、思考のセンスも抜群な会社の先輩が、「今朝はいかが?(白血球の)神様は関ヶ原くらいですかね?」とメッセージをくれていたが、実に、的中。
明日には、三方ヶ原くらいまで戻ってきて欲しい。
年末、大好きなリエコさんと忘年会をした。リエコさんが、弟分として大事にしているバーテンダーを紹介してくださるというので、ウキウキしながらご一緒させていただいた。12月というのに、日中の気温は20度近くまで上がり、夜も、生温かい風が吹いていた。
銀座、並木通り。
宝石箱のようなブランドショップのウインドウに街路灯が反射している。整然と植えられたリンデン(セイヨウシナノキ)の並木道。歩道には、ブラジルから取り寄せたという赤御影石の敷石。ワタシは、ハイヒールを履いてこなかったことを後悔し始めていた。ココは、やっぱり、文化が薫る、本物の価値を知る大人の街だからだ。歩道にヒールの靴音を響かせながら、精一杯のお洒落をした自分を、ときどき、ちらっと横目に、ウインドウの反射に探しながら歩く。そんな風に、カッコつけて来るべき場所だった。
リエコさんが案内してくださったバーは、地下にあった。
リエコさんが、ひときわ存在感のあるバーテンダーさんをご紹介くださる。
「トザワ君。こないだ、日本一になったんだよー。」
聞くと、先日、ミラノで開催された世界一のバーテンダーを決める世界選手権に日本代表として出場され、帰国されたばかりだという。
全国バーテンダー技能競技大会とは、日本バーテンダー協会(N.B.A)が主催する、日本で最も権威あるバーテンダーの技能コンペティションである。
日本バーテンダー協会の歴史は古く、なんと、その設立は、1929年(昭和4年)。第一次世界大戦の終結から10年、国内市場の貧弱な日本も、不況に喘いでいた。『大学は出たけれど』という映画が封切られ、共感を呼んだ。大学卒業者の就職難が深刻で、この年、東京大学卒の就職率が30%だった、という記録がある。
この年の10月、ニューヨーク・ウォール街の株価大暴落から世界恐慌が始まり、世界は次の戦争へと向かっていく。
そんな時代だ。
日本バーテンダー協会は、「飲料文化の発展とバーテンダーの技術の錬磨と人格の陶冶」を目的に設立された。協会のホームページに、「その足跡は我が国のバーテンダーの歴史でもあり、飲料業界の発展と共に歩んできた歴史とも言える」とある通り、日本のバー文化とその担い手を守り育て、見つめ続けた歴史ある唯一無二の存在なのだ(引用は協会HPより)。
「バーテンダーの技術の錬磨と人格の陶冶」のため、年に一度、全国8本部(北海道、東北、関越、関東、中日本、関西、中国、四国、九州)ごとに大会をし、そこで勝ち上がった上位者が、全国大会の出場権を得る。大会は、学科、フルーツ・カッティング、課題カクテル、創作カクテルの4部門の総合点で競われる。
要するに、単なるコンクールなどではなく、甲子園とか、国体とか、そういう類の、技能と人間力が問われる、ホンモノの、バーテンダーの日本一を決める大会なのだ。
その優勝者が、目の前にいる。
戸沢貴光さん。
舞台俳優か、歌舞伎役者のような(断然、褒め言葉のつもり)、高級店の仄暗い灯りで、そこだけスポットライトが二つ三つ、下からもレフ板も当たっているかのような、圧倒的な存在感を放っている。
リエコさんにとっては、馴染みのお店。戸沢さんとは20年?来のお付き合いだという。完全に寛いでいる様子がサマになっている。
カウンターの向こうは、舞台なんだ、と思った。
手捌き、指捌き、身のこなしが美しくて、釘付けになる。アートだ、と思った。
戸沢さんは、17回目のチャレンジで、日本一の栄光を掴み取ったのだという。
息を飲んで、もう一度、ワタシは聞き直した。
「17回、、、17年、チャレンジしたんですか?」
日本に、素敵なバーなんて、星の数ほどあるだろう。
素敵なバーテンダーだって、星々のきらめきの数ほどあるはずだ。
その中の、一番になる。
初挑戦は20代の頃。そこから、17年を重ねられたのだという。
・・・
胸が詰まった。
バーテンダーとして生きていくために、日本一の称号は、何がなんでも必要なモノかと問われれば、そうではないと思う。
ナンバーワンの栄誉は、権威ある協会の歴史の1ページに、刻まれる。ずっと。
だが、それによって、それからの人生の、なんらか保証や約束が与えられるわけでもないだろう。
大会を勝ち抜くために、どれくらいの努力を積み重ねられたのだろう。
夜中までの接客を終えて、翌日に向けた準備までの、貴重な休息の時間を、鍛錬の時間に充てられたのだろう。犠牲にしたものも、あったのではないだろうか。
それを、ずっと、17年続けられた。
挑戦をやめる「機会」や「理由」なんて、いくらでもあったと思う。
もう、十分にやり切った、力を出し尽くした。
ナンバーワンじゃなくても、オンリーワンだ。
チャレンジしたことに意味がある。悔いはない、、、
そう考えて、自分の区切りをつける人だって、きっと多いはずだ。
年々、ライバルの顔ぶれも変わるだろう。
伸び盛りの才能ある若手だって、どんどん登場してくるだろうし、圧倒的な技術という基盤の上に、個人の創造性や感性などの芸術的な要素を、その時代に、正しく評価してくれる人たちがいてくれるかどうか、それを信じ抜く力だって必要だ。
オギャーと生まれてから、翌年には大人(そういえば、この国の成人年齢は18歳になったのだった)になる年月、ずっと、一つの目標を諦めずに頑張って、とうとう夢を叶えた人だ。
リエコさんと、楽しそうに話をしている。
リエコさんは、いつもの、とハウスワインを注文する。
コッポラのディレクターズカット。なんて洒落ているのだろう。
ワタシには、ノンアルコールの、ものすごく美味しいカクテルを作ってくださる。美味しいノンアルのカクテルを作るのは、実は、とても難しいそうだ。お酒でしか醸せない風味をどう表現するか、など、など。
作っていただいたのは、美しい、ザクロのカクテル(ノンアルの、いわゆるモクテル)。ひょっとしたら、お酒入りよりも美味しいんじゃないかと、すっかり酔ってしまう。
女性として、初めてエベレストに登頂した田部井淳子さんが、高峰を極める登山からは引退され、がん闘病中の時にあっても、東日本大震災の被災地域の高校生を力付けるためのプロジェクトを始められ、富士登山の例会(このプロジェクトは、被災地の高校生1000人に富士登頂をさせることを目標に掲げていた)には可能な限り参加されていたという。最後の参加は、亡くなる3ヶ月前だったという。以下は、田部井さんの著書からの引用だ。
今、こうして、田部井さんの言葉と一緒に思い返してみても、戸沢さんのチャレンジ伝説は、ワタシの勇気の素になっている。
元気になって、また、あの一杯を、頂きに行くのだ。
リエコさんにお願いをして、ココに書くことをご承諾いただきましたのでご紹介。
戸沢貴光さんが優勝した第49回大会の様子はこちら。
なお、戸沢さんのカクテルはこちらで頂けます。
写真は、このお店の、数軒お隣にあるベルルッティのクリスマスディスプレイ。
この日は、何もかもが、キラキラしていて、眩しかった。
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