人知れず一番きれいに輝く
イオンの幽霊が出そうなくらい萎びたイオンを出たときだった。
俺が宇宙を宿したのは。
実際には、気づいた瞬間、で、気づいたのはその日デートしていたナオキさんだった。「トモ、お前それなに?」ナオキさんが指さすそこには、俺のバキバキに割れた魅力的な腹があるはずで、視線を下げた先、「え、あー、なんすかねこれ……」というアホ丸出しな困惑を返した覚えがある。
結果としてはつまらなかった映画を観るためだけに訪れた死にかけのイオンから出て、暑さにシャツの裾を捲り上げた。日常を切り裂くような特異な点があったか? イオンなんて全国どこにでもたぶんあるし、俺の人生において映画は退屈なのが大半、「え、ビョーキ?」と言ったナオキさんは可もなく不可もない寝るには都合のいい男で、なにも、このあとパートナー申請に行こう! と考えていた相手じゃない。俺の人生に寝るだけの相手なんてごまんといて、だから「逆にセフレとかエモいじゃん、ブルーフィルムじゃん」とかも適用されない。
なんの変哲もない、強いて言うなら唐突になにかがはじまる物語を担う季節って夏だよなぁ、くらいの日に、俺の腹に宇宙が現れた。
それは世界初の奇跡、珍事、神秘、言いかたはどーでもいいけど、とにかくそんなんじゃなかった。遡ればけっこうな昔から出現の記録があって、百年のあいだにもそこそこ発見されていて、十年以内だと国内でふたりは報告が上がっているらしい。おそらく申請していない人間もいるだろうから、と役所から来た担当のオッサンが言っていた。
人間の身体のどこかにある日突然生まれた宇宙は、死ぬまでそこにあり続ける。当人にも周りにも害を与えずに、ただ。
ほかにも色々聞いたけど、多くを忘れた。もともと俺は物覚えが悪くて、頭も悪いほうに振り分けられるだろう。ぼんやり楽しく暮らしていけるのも若いうちだけかな、なんてスマホ眺めて眠れない夜を潰す程度の情緒はあった。宇宙もあった。
宇宙があってもスマホは鳴る。暇? と尋ねられて「ヒマ」以外に返さないでいると、都合が良いだけで繋がる相手がどんどん増えていく。
腹に手を突っ込んでかき回すのを、男も女もそうじゃないと言う人も、性別年齢なにも関係なくみんな楽しそうにやった。「コスモレンジャーに顔が宇宙になってる雑魚怪人いたじゃんなんかあれみたい」「すぅー、って沈む感じ! もうちょい、あと少し!」寝たやつ全員が俺の腹に爪と指と手を入れて、さすがに頭を押し込もうとした馬鹿は半裸で追い出してやった。冷たくて不安になると言った人間も、手をくるくるすると癒されると笑った人間もいたけど、俺は一度も中に触れたことがない。
なぜか宇宙は、俺だけ触れない。
そこに身を沈められる連中を羨ましいと思わなかった。
俺がこの身体に持つ拭えない嫌悪感を誤魔化すためにいい感じに割った腹筋を、俺の指はちゃんと「割れてんなぁ」と理解できる。見た目は下腹部ぜんぶ宇宙だけど、俺の指だけはちゃんと俺の身体だとわかっている。でこぼこした隆起があって、指を押し込むと骨が触る。へそだって風呂場で洗う。俺の手は俺の身体を素通りしてどこかを漂ったりしない。なんなら俺にとって、いま掻き回すコーヒーのほうが宇宙っぽい。
「や、それ聞いてこれ以上なにを言えと」
くるくる、シロップありミルクなし、正しく出してくれる数少ない人間のうちのひとりが向かいで半笑いを浮かべる。団地の一室、張り替えられた壁紙が引っ越すつもりがないと主張しているよう。ヤニで酷かったもんなぁ、と砂糖が溶けたコーヒーをすする。
「言うなとか俺そんな話したぁ?」
「だから、寝なくなったんだろ誰とも。その延長線上じゃん、このことは」
幼なじみだからって、馬鹿の俺に対してはひとつひとつ繋がった言葉で話してくれなきゃわからない。ユウトは昔からそつなくなんでもこなして、団地の子どものリーダーだった。性格は戦隊モノで言うとブラックとかシルバーのくせに、レッドに成れる人間がいないのが悪かったのか、中学まで常に真ん中に立っていた。同世代がバラバラの学校に通い出してから気が楽になったのか、まだくっついていた俺と一緒に夜遊びなども一通り経験して、役所勤めになった。なんかムカついたから寝た。
「俺はシルバーくんと違ってテレパシーなんてないんだから。すまんけどわかるように言ってマジで」
こざっぱりした部屋に住んでこざっぱりしたセックスしたくせに、ごちゃごちゃした団地に戻ってくるなんて、リーダーってこわい。「シルバーじゃない。ブラックでもない」と真面目に否定するのがそれっぽい。でもいまどき、色でキャラクター性って決まらないのか? 戦隊モノなんてもう何年もタイトルさえ知らない。ユウトは細いスプーンでグラスの上のクリームを掬い、そのまま俺を指す。家でこんな本気のアイスロイヤルミルクティー作るやついるんだ。
「智哉はいま自分を大事にしはじめたわけだよ」「指すな人をクリームでさっさと食え」
「寝たくないし触られたくないし見られたくない」
ないし、のあいだにクリームを食べてさらに追いクリーム。あとはくるくると細い、なんて呼ぶのか謎のあのスプーンでグラスをかき回す。カラカラと鳴る氷が子どもの時代を呼び起こす。この部屋で俺はよくユウトの母さんにカルピスを作ってもらった。台所へ一緒に立って、どれくらい原液を注ぐのか見つめた。もうちょっとと言っても、おばさんはかたくなに量を増やさなかった。
そのせいか、俺はいまだにうっすいカルピスが好き。
「おーい説明してるでしょうが。なに考えてた? 絶対別のことだろ」
伸びてきたスプーンが顔の前で揺れる。
「え……っと、宇宙?」
「その話にたどり着くけど、いまは絶対違うね。なに、ここのふすま壊したことでも思い出したか」
「あれってヤサコがやったんじゃなかったっけ」「お前らふたりが戦隊ごっこしたからだろ」
じゃあぶん投げられたんだ。俺はいつも雑魚怪人で、ユウトの双子の妹ヤサコはホワイト。一番かっこよくて一番強いと根拠もなくあいつは胸を張った。だからびっくりした、ホワイトがいないときもあるってことに。成長すると余計な知識が増える。ホワイトもシルバーもあたりまえにはいなくて、怪人に憧れるのは特別おかしくもない。
人体に宇宙が宿る現象についての知識は、どうだろう。みんながみんな知ってる情報じゃなくて、それこそ「個人情報」だからテレビでもあんまりやらない。それを俺が知っていたとして、まさか自分の身に降りかかるとは想像しない。俺は想像力に乏しい人間で、だから怪人なれば暴れても許される、おもちゃコーナーにはグッズもあるし、程度に考えて毎度ホワイトことヤサコにぶん投げられて泣いていたのだ。「おばさんめちゃくちゃキレてたな」「死ぬまで年イチくらいでお前の文句言ってたぞ」一度もシルバーを自称しなかったユウトが、ん、とスプーンを横に向ける。仕切りを開け放って居間と続く寝室、その押し入れのふすまを指す。
「あれ見てたんじゃねぇの」
「別に、ぼーっとしてただけ」
「やっぱりそうじゃねぇか。ぼんやりするか暴れるか、あー、暴れ癖なくなってよかったなぁお前」
なにを染み入っているのだシルバー。まだそういうのは早い、あと十年後くらいにしてくれないと恥ずかしい。羞恥で睨むかたちになった先、これもきれいに張り替えられたふすま。あのボコボコの穴が恋しいような、そこにずっとあって欲しかったような。
「で、誰かれかまわずにシフトチェンジしたわけだけど」
「俺にも好みくらいある」
「いーけどさ、誰か殴って人生終わっちゃうよりは。でも選ばないから変なやつもいたし……や、選んでたって話かこれ」
また上手く繋がらない。でもストレスはない。ユウトは頭が良いから、俺より何倍もずっと上手く世の中を渡るから、だから時々ボールを受け取れないんだと思える。ユウトを認めているからだ。ほかのやつ相手だと、俺はただの救えないアホに成り下がってしまう。
実のところ、ぜんぶなんとなく認識している。俺のほうに問題があること。
「ユウトも変のうちじゃね」
「俺はいいんだよ友達だし」
「ふつう寝たやつが妹とも寝たらキレる気がするけどね」
「いいんだよ優子もお前と友達だし」
やっぱりシルバーとホワイトはちょっとイレギュラーな枠として用意されてるのかも。俺のためとか。くちびるの端が変にひくりと動いて、俺は慌てて椅子から立ち上がる。「ベランダ!」「いま一瞬暴れる前みたいな顔したぞ」うるさい! と寝室側からベランダに出る。サンダルが大きい。昔は小さいのを履いた。それはもう見当たらない。隣に裸足のユウトが並ぶ。晴れ。空から視線を下げると、背の高い棟に囲まれてしょぼい公園がある。高校生になっても、日が落ちて帰宅するのは少しビビった。それなのに、夜中にひとりでブランコに乗った。背を撫でる生暖かい風に怖気立っても、ずっとそうしていた。泊まり歩く部屋が増えていくのは、あたりまえか。大人ならすぐに考えつく因果関係も、子どもには難しい。
土曜の昼過ぎ、公園には小さな影がみっつ。四階の部屋にも届く声を聞きながら、流れてくる煙を手で払う。
「ひとこと断れよ」
「ここは俺の家でお前にはふすまを壊されたこともある」
「そのときはお前が家賃払ってないじゃん」
サンダルの先で端に寄せられていた灰皿を押しやる。ごっつい灰皿に吸殻の山。役所ってストレス凄いのかな。
「卒業前に修羅場ってたよな。あんなとこでやるから、ベランダからみーんな顔出して」
こう、とユウトが身を乗り出して公園を覗くフリをして笑う。
「女の子ふたりにどつかれる智哉を見ながら吸う煙草は美味かったなぁ〜」
「ヤサコが爆笑してんの下からでも見えたぞ。そんでよけいあの子ら怒っちゃって」
「お前の自業自得」
でもないのかそうなのか、とかユウトは口の中でもごもご言って、それを煙にしてまた吐いた。
「そういうのやめたならよかったって話」
吹いた風が嫌がらせみたいに灰を寄越す。「ほら、交代」シャツについたそれを払っていると、ユウトが雑に俺の肩を掴み風上に移動させた。軽く叩くシャツの下にまさか宇宙が隠れているなんて、役所で知ったこいつも驚いたことだろう。
「それのおかげで、お前はお前の身体がお前のもんだって気づいたお前だけのもんだって」
「ゲシュタルト崩壊するわ」
ふざけた言い回しに笑いながら、シャツをつまむ。触りたがるやつの手を払ったのはたぶん腹が宇宙になって一年くらいの頃。触るなと無意識に放ったのにも、飛び出した声が震えていたのにも狼狽えて、結局その日は失敗した。その日から失敗し続けた。相手が誰であれシャツを脱いで欲しいと口を揃えたように言うし、見れば直接か視線のどちらかで触らせろとねだる。断り続けるのが苦痛になって、誰ともしなくなった。
「失敗したから。誰も俺としない」
「誰かがしないのとお前がしないのとじゃ、川の向こうとこっちくらい違う。わかってんのか」「たぶんわかってない」
「俺とお前はこっちだろ。向こうにはクソムカつく篠田が住んでた。それくらい違う」
ユウトが真向かいの棟を煙草を持った指で示す。「いやわかんねぇだろそれじゃあ」「えー、そうか」「シノダっていまなにしてんの」「しらん。ここに戻ってるのたぶん俺だけだよ」シノダはムカつく野郎だったけど、たくさん殴られたうちの一発は俺が悪かったと思う。まさか隣のクラスの相川くんが好きだったなんて、あと三日はやく言ってくれれば俺だって。
「あと失敗じゃなくて思考だよ。お前考えてんの、それを通して、いろんなこと」
「……やば、過去イチでシルバーっぽい」
それ、とユウトが腹に伸ばしかけてやめた手を掴んで腹筋に押しあてる。
「……割ってんなぁ」
「もうバキバキよ」
すぐに離れていく手のひらに思考。ユウトは俺についてなにかを考えていて、ヤサコも俺についてなにかを考えている。ヒナちゃんとミナミくんはきっと考えてなくて、「ええ、なんかキモ……」って半笑いで触れもしなかったナオキさんはもしかしたら少しは考えてくれてたのかも。
宇宙を宿して、俺の身体の神秘を思考する。
手すりにもたれ、空を見る。いまここに青空と宇宙。「優斗〜〜〜!」眼下には手を振るヤサコ。
「智哉! まだいた!」
「いるよ〜飲み行って泊まりって言ったじゃん!」
「骨どうすんの!」
「え〜〜〜、断るかも!」
そっか! と大声を返すヤサコをユウトがさっさと上がってこいと手招く。吸殻の山を無理やりにかき分けて火を消したユウトに背を押され、部屋の中に戻る。椅子に座り、ヤサコのためのアイスロイヤルミルクティーを用意しはじめた背中を眺める。
「ほら、嫌だったんだよお前。デカい声」
「ユウト職場で怒られない?」
「別に、大丈夫だろ。ふつうのプラネタリウムでも充分きれい」
団地の子どもたち向けのイベントでもたまに使っていたプラネタリウムが古くなった。
隣の駅にあって、俺も二回観に行った。正直、おばさんが帰りに買ってくれたクレープのほうが印象に残っている。俺にとってはわりとどーでもいいそのプラネタリウムが、廃館になるか建て替えか、地域としてはそこそこに悩めて深刻ではない、ちょうどいい問題の種になっている。あの死にかけのイオンの近く。
そこに俺という神秘の登場。
外国には骨を焼いて溶いて作ったプラネタリウムがあってそれがめっちゃ人気、ということを難しい言葉と神妙な顔で延々と聞かされた。「あー、はぁ」と返した俺にオッサンが向けた視線には新鮮味がなかった。
「俺のプラネタリウムのほうがきれいなのはそうじゃん、絶対」
たぶん、クリームさえそつなく飾るユウトの背中に投げる。
「しらんし」
笑ったのに合わせて玄関が乱暴に開く。うるせぇなぁ、とユウトが呟いた。中扉も同じように開けて、ヤサコが登場する。
「そのほうがいいと思う! あたしも!」
カバンを余りの椅子の背に掛けて、俺の向かいに座る。外の暑さに額を汗で光らせながらユウトのグラスの中身を勝手に飲む。
「優斗がさっさと断ればよかったのに」
「勝手にしないよそんなこと」
呆れ顔で新しいグラスをヤサコの前に置いて自分の分を横にズラすユウト。座ったふたりの顔を交互に見る。やっぱり似てんなぁ。
「ヤサコの空けた穴塞いじゃったって」
「知ってるし、あれは智哉が空けた穴です」
「や、ホワイトのせいでしょ」
違いますぅー、と細いスプーンでクリームを掬うヤサコの足をテーブルの下で蹴る。蹴り返される。蹴る。「おい」と揃ってユウトに叱られる。
「強く言っといて優斗から」
言いながら今度はユウトを蹴ったらしい。「だいたい死んだあとのこと今決めろなんてムカつくでしょ」「あー、ね。ムカついたムカついた」「死体寄贈しろなんて、誰かが言うもんじゃないよ」未来は不安ばっかだけど、さすがにまだ死んだあとなんて考えられないし、考えだしたら色々とおしまいだと思う。俺の場合。
身寄りがないなら役所が諸々の手続きを引き受けることが可能、とこれも難しい言葉ばっかり使われて説明された。この数ヶ月で俺の周りに現れた大人たちへの悪態を吐く、似た顔のふたりを見る。俺にもしそういう手続きをしてくれる人が新しく必要なら、それはユウトとヤサコが適任じゃね? 俺の神秘なる身体を任せるのはやっぱり、シルバーとホワイトでなくちゃ。「任されよ」「その前に誰が先に死ぬかわかんねぇだろ」「あたしめっちゃ長生きする気がする最強のババアになる」言い合うふたりのテーブル下の攻防が激しくなって、椅子がガタガタと揺れている。
「ウチら母さんの葬儀も上手く回したから。智哉知ってる〜? 骨壷にもランクがあんだよ。どれにしますかーって、なんでもいいよそんな容器、」
「なーあのさ、俺って骨壷に入ったらそこがプラネタリウムになるの?」
聞いた瞬間にビビビときた。
どうにか俺を説き伏せようとするオッサン、骨も特殊なかたちになりましてそのままでもそれはうつくしい夜空を近くの物体に投影いたしますさらに専用の液に浸して溶いたものを塗布することでプラネタリウムとしての運用が可能になります既存のものとは違いまるで身を宇宙に浸しているかのような神秘的な星々の輝きがそこにはあるのです、いやそれ暗記しただけでしょ。そんなん言われたって全然心動かないけど、ビビビときたよ俺は!
「俺、自分だけのプラネタリウムになるからさ、たまに開けて覗いていいよ」
俺だけの神秘に抱かれていつか眠る日を想像する。なんだかとっても気分がグッド。「いいね」「いいな」正面のよっつの目が星みたいにまたたいた。