闇の始まりは何時から?①
~上皇ってどんな人?~
今日は10月小春、散歩していても暖かい。ラブの散歩は声かけでうまくいっており、3回に1回は公園コースへの誘導ができるようになった。後の2回はラブの好きなコース、犬とはいえども折り合いをつけるのは大事だと思う日々。私といえば受診日を決めるところまできたが・・・。
先日の篠原氏の 10/7の配信のユーチューブ
【プレミア公開】美智子上皇后特集 引っ越しで露呈した衣装道 楽 税金投入
の中で、上皇の衣類作成額が私の想像を超えて4億に近い額である 事にショックを受け、上皇への印象が変わった。それまでは、尻に敷かれた浅はかな天皇のイメージだったが、どうも違うのではないか?
天皇ともあろう方が妻の衣装道楽を諫めずに、一緒に作り嬉々と して海外に出かけていたのか?
もしかして、あの「私たちは私的な旅行をしたことがない」の発言は自分の気持ちそのものだった?
美智子さまは上皇の記者会見などの発言原稿は目を通し、添削や助言をすると聞いていたので、言わされたと思っていた・・
まさかあの(H26/10)メキシコ大統領の晩さん会で雅子妃の紹介を飛ばしたのは、意図的に当時の天皇が行ったことなのか?
人間、『明仁』という方に興味がわいた・・・
https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/hermes/ir/re/18839/0201000108.pdf
上記の資料は松本健一『象徴天皇制の形成―昭和天皇とその時代―』岩波書店、2001年に基づいて書かれています。 読売新聞社
たくさんの方が回想や記録をもとに書いてあり、その中から明仁皇太子の教育 第4章のみ読ませてもらった。
幼少期から両親とは離されて育ったことは知っていましたが、改めて読んでみるとなるほどなあと思うこともありました。
軍国主義さなかの中でひ弱な小学生は、たくさんの大人の手により皇太子教育をつめこまれた。反面、軍人としての教育からは 距離を置き軍人としての任官も受けなかった。これは昭和天皇の方針だったようだ。というか上層部は敗戦が近いとわかっていたようだ。日光に疎開するころには側近たちの教育方針は、皇太子教育から天皇教育を意識していたようだ。
終戦となり敗戦国の昭和天皇は、罪状によっては生死にもかかわる事態であったのだろう。明仁皇太子の即位が現実味を帯びたの だ。
結果的に即位はなくなった。昭和天皇が我が身を投げ出し国民の生活を守ってほしいと嘆願し,マッカーサー元帥が感動したとさ れている。
生まれながら皇太子で中学生になるかならぬかで天皇即位も考えなければならなかったという特殊な環境下で、思春期を過ごしてきたのだなあ。
反抗期も難しかったでしょうね、このころは側近に軍人もいまし たから隠れた反抗しかできなかったのでは?
【上記より一部抜粋】
同窓の橋本氏から見て、少年・青年期の天皇はどちらかといえば情緒不安定、暗い性格で、移り気、勉強嫌いだったという。しかし美智子皇后との結婚が、大きな転機となった。
〈同学年生の間で、皇太子(当時、以下同)ほど陰々滅々な男は他に見当たらなかった。老成して希望もなくくさり切っていた。
天皇という目的もなくなった明仁皇太子。陰気さだけなのか、陰湿な面もあったのではないか。
この中で飛んできた虫をコンパスで刺すため机が穴だらけだったという話がある。
今なら要注意学生で親が事情を聞かれそうだ。そういえば、テンジクネズミを泳がせて死なせてしまった礼宮を池に投げ入れたという話も、今なら虐待騒ぎになるだろう。
つづく
思ったより長くなってしまいましたので続きは次回にいたします。
今日も読んで頂きありがとうございます。❤️