「支配されるという特権」という言葉の重み
はじめに
この記事はゲームとことば Advent Calendar 2024の12月23日分の記事です。
『タクティクスオウガ』の「二人のランスロット」
度々リニューアルされているSRPGの名作です。今回私が採り上げる言葉は、第4章冒頭の「二人のランスロット」のシーンのこの言葉です。
暗黒騎士ランスロット
「・・・聖騎士よ、貴公は純粋すぎる。民に自分の夢を求めてはならない。支配者は与えるだけでよい。」
聖騎士ランスロット
「何を与えるというのだ?」
暗黒騎士ランスロット
「支配されるという特権をだ!」
これを20年以上前の高校自体に見た時、このような「支配される側」にまわる恐怖を考えてはいませんでした。しかし、今の世界情勢を見てみると、恐ろしいほどよく似ています。現在、権威主義的勢力が世界各地で力を伸ばし、いろいろな人たちの自由が奪われ、さらには侵略によって命を落としている現状があります。その一方で、権威主義の国に暮らしている人たちにとっても、生活は苦しくなるばかり。たとえば、ロシアでは、バターが鍵のかかったケースで売らなければいけないほど値上がりしており、一般庶民の口に入るものではなくなっているようです。
そんな世界情勢の中で、「支配されるという特権」とは国家に生殺与奪を握られるとともに、自らを支配する世界を優れたものとみなし、他への侵略を繰り返す体制に組み込むことなのだと強く感じました。
その体制にも「ほころび」が
さて、『タクティクスオウガ』作中のこのシーンの裏では、民衆の暴動が発生し、バクラム軍の兵士がその鎮圧に暗黒騎士団ロスローリアンを投入するかという言葉が裏から聞こえてきます。これも、今世界のどこかで起こっていることなのだと思います。
30年経っても色褪せない作品
『タクティクスオウガ』はもう登場から30年が経とうとしていますが、本当に色褪せない作品だと思います。
いま、リメイク版をプレイしつつ、この言葉の重みを噛み締めたいものです。