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道徳教育だけではなく法律・人権教育も

道徳教育の意義と正の面

皆さんは道徳の授業、どういった授業であったか覚えていますか?
義務教育を終えたのが10年以上前なのでうろ覚えですが、人の嫌がることをしないとか、人の気持ちを思いやるだとか、マナーやモラルを身に着けるとか、だいたいそういう内容だったような気がします。

文部科学省のHPでは道徳教育の重要性について以下のように述べています。

児童生徒が,生命を大切にする心や他人を思いやる心,善悪の判断などの規範意識等の道徳性を身に付けることは,とても重要です。

文部科学省HP 道徳教育(https:/www.mext.go.jp/a_menu/shotou/doutoku/)

他人を思いやること、善悪を判断することといった事柄は隣人や自分の住む地域社会と上手くやっていくためには重要なスキルであると私は考えています。
私はといえば空気が読めないことが多々あるので、そういった道徳教育を活かせているかは微妙な所ですが、ある程度「こういう価値判断をする人もいるんだな」という指標にはなりました。

道徳の教科書で、子供を轢いてしまった人が親御さんの元の少ない給料を送り、手紙を送り、贖罪の日々を送っている人物の話がありました。詳細は省きますが、最後には親御さんにその人は赦しを得て、その人は救いを得ます。
このラストに落ち着いたのは、双方がお互いを思やっていたからです。例えば親御さんが「子供を死なせたのだから送金や手紙は当たり前」とするような人であったなら赦しは永遠に得られなかったでしょうし、事故を起こしてしまった人が送金や手紙を送るようなことをしなければ、親御さんにその人の思いが伝わることもなかったでしょう。
同じ価値判断を共有していたから、贖罪に対して寛容に赦しを与えることができた親御さん。子供を死なせたという罪に対して刑以外で自主的に償うべきだという倫理的判断を実践したその人。最善の結果がもたらされたのは「同じ価値判断(道徳観)を共有していたから」「思いやりを実践したから」に他ならないと私は考えています。それはとても奇跡的な事であるとも。

世の中には様々な人がいます。
東京や見知らぬ土地を旅すると肌身で感じますが、価値観及び価値判断が本当に多様な考えや在りようをしているのです。
誰もが同じ価値観を共有できるとは限らない。様々な価値観があるということは、常に特定のコミュニティで生活していると忘れがちで、異なる思想や考えを粗雑に扱いがちです。だからこそ同じ価値観を共有するということ、思いやりを実践し、それが適切な形で受け取られるということは「当たり前」ではなく「奇跡的なこと」と私は常に頭の片隅に留め置いています。
そういう意味では道徳教育は素晴らしいものと言えるでしょう

正の面だけでなく負の面もある

さて、ここまで読んだあなたは「そんな奇跡的な事柄を共有するための道徳の教育は素晴らしいものだ」という考えを抱くかもしれませんが、実はそれは本題ではありません。以下に続く道徳教育の負の面がこのnoteの本題になります。
何故前置きで道徳の良い面について述べたかというと、それは負の面と表裏一体のものだからです。

以前、教科書検定で道徳教育が変わるという話が物議を醸したことを覚えていますでしょうか。「道徳の教科化でファシズム(全体主義)の都合良くなろうとしてる」「国による価値観の押し付け」というような批判を私はネット上で見たことがあります。これに対して「何故ここまで思いやりを説く教育を悪く言うんだろう」といった疑問の声が上がっているのも見ました。
同じものを語っているのに何故ここまで反応が違うのか。それは「道徳」の正の面、負の面のどちらにフォーカスしているか。その違いであると私は考えています。

道徳教育の持つ負の面に関して、現代ビジネスで木村草太氏は以下のように述べています。

「道徳」といわれると、多くの人は漠然と「人として良いこと」と考えてしまう。しかし、「道徳」の内容はあまりに曖昧だ。また、法律と違って、誰が作るのかもはっきりしない。このため、「道徳」の授業には、一部の人や集団にしか通用しない規範を、漠然とした圧力で押し付けてしまう危険がある。
(これは何かの冗談ですか? 小学校「道徳教育」の驚きの実態 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/47434?page=5

一部の人や集団にしか通用しない規範というとピンと来ないかもしれませんが、例えば、日本企業にありがちな「始業1時間前に出勤する」や「自分の仕事が終わらなかったらサービス残業は当たり前」、「会議のための会議」といった暗黙の了解謎ルールと言えば分かりやすいでしょうか。
本当はそれは法的に必要のない事柄であったり、よくよく検討すると無駄なものである事柄。そういったものを「まるでルール・義務であるかのような強制性を付与される」、「暗黙の了解に従わない人は非常識な人であるとされる」。これが道徳の負の面です。

そして、こういったルール化されていない漠然とした暗黙の了解をあたかもルール・義務であるかのように強制するということは、それによって発生したリスクや問題は往々にして個人の責任とされます。

例えば極端な例ですが、サービス残業によって実は労働基準法に抵触するようなことがあっても「サービス残業は自主的にやったものでしょう? 会社は始業終業時間を明確にしているのに、あなたはそれを守らなかったじゃないですか」と自己責任に出来てしまえるように、法律等のきちんと規定されたルールの範囲外で規範を守っても、組織は自分を守ってくれないのです。

正の面、負の面の要点

ここまで長々と書きましたが要するに、

道徳で言われるような規範や、共感ベースのルール化されていない暗黙の了解、コミュニティの独自ルールに従うことはコミュニティ内部の関係を円滑にする正の面もありますが、それによって被る不利益は保障されない、自己責任にされるリスクがあるという負の面が存在するということです。

道徳ではカバーできない部分の教育が必要

では、その道徳の正の面、負の面を踏まえてどういう教育がよいのかというのが本日のタイトルになります。

私は絶対に許してはならないものはルール化し、そうでもない・場合によるようなことは道徳等の規範で対応すればいいと考えています。そして、ルールでない規範は守るも守らないも最終的には本人の自主性に任せられるべきという意見です。

〇絶対に許してはならないもののルール化(法制化)
〇規範の守る、守らないを本人の自主性に任せる(多様性の尊重)

この道徳でカバーできない2点は法教育や人権教育によってカバーできると私は考えています。
いじめや労働者の不当な取り扱いをしてはいけないというのは法律で定められていたりしますが、案外それらは具体的にどういった法律なのかという事柄は知られていなかったりします。自分を守る法律をきちんと把握し、行使することで不当な取り扱いや暴力から身を守ることができるのです。
また、人権教育では自身の権利以外にも他者の人権を守る・尊重することも含まれています。規範によって不必要にガチガチになってしまっていたり、規範を内面化しすぎて自分らしさを見失ってしまったりというのは規範の負の面を顕在化している状態と考えています。そういった過剰な規範を拒否する根拠として「他者の尊重」があります。

人権教育を通して社会構造に目を向ける

また、人権教育は道徳教育ではコミットできない「社会構造に目を向ける」ということに関しても有用だと考えています。

現行の道徳教育では、「狭い関係性」にばかり注意が集まってしまい、その関係の中に、社会的に仕組まれたより広い構造的課題が凝集しているのではないか、と考えることができない。「心のあり方」を問題とする道徳の枠組みでは、この社会的な構造は問えない(現在の道徳教育で社会問題が扱われていないということではない。そこでの視点の問題である)
(「人権」と「思いやり」は違う…日本の教育が教えない重要な視点 「道徳」で「差別」に挑んではならない https://news.livedoor.com/article/detail/17987500/)

先に言ったように、道徳などの特定のコミュニティの規範の枠組みでは、問題を自己責任にされがちなので、社会の問題として目が向かないということが往々にしてあります。

「サービス残業は自己責任」ではなく、「そうやって自己責任でサービス残業が起こる会社の体質が問題」という社会であるべきではないでしょうか。
そのためにも人権教育は大切なものだと私は考えます。

問題を自己責任にしないためにも、他人にも自分にも優しくあるためにも、そういったことを勉強していきたいですね。

🍋参考


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