『CHAKHO』セインの不幸と名もなき「ボム」
『7FATES:CHAKHO』(以下『CHAKHO』)の登場人物は、大きく三者に分けられる。まず、ボムがいてもいなくても幸せに暮らしている人物。次に、ボムの出現によって不幸になった人物。最後が、ボムが現れる前から不幸だった人物である。
例えば、家族をボムに殺されたファンは「ボムの出現によって不幸になった人物」といえるだろう。封印が解かれてから一ヶ月で、既に新市の死者数は2000人を越えていた。彼の言うとおり、「今もどこかで人が殺されているかもしれない」。
そんな極限の状況下で、自分の生い立ちについて振り返るキャラクターがいた。それがセインである。彼は「ボムが現れる前から不幸だった人物」といえるのだが、同時に彼は、「自分の抱える問題なんてちっぽけなもの」と話す。
はたして、それは本当だろうか。わたしはそうは思わない。ボムがもたらした不幸と、それ以外の不幸の間に、上下があるとは思わない。
けれど、そういう考えが浮かんだのもまた、『CHAKHO』にセインが現れたからこそだった。彼はいったい、何を話したのだろうか。
(※この記事は、『7FATES:CHAKHO』ノベル14~24話のネタバレを含みます。)
ひとりぼっちの「自分語り」
セインの初登場はノベル14話。約18ページにもわたる、長い長い「自分語り」で始まった。
『CHAKHO』では、時々このような「自分語り」が挿入される。ノベル2話のジェハや、4話のドグォンをはじめとして、様々なキャラクターが自らの思考に没入する。キャラクターの視点で世界が描かれ、その人しか知りえない過去や事実が明かされる、それが「自分語り」だ。(ちなみに主要キャラクターの中で、まだ一度もこれを経験していないのがハルなのだが、それが彼の得体の知れなさにも繋がっている)
なかでもセインの「自分語り」で特徴的なのが、モノローグの多さだ。つまりよく喋るのである。
もちろん登場が遅かったこともあろうが、彼は本当にひとりでよく喋る。小さい頃から家族との折り合いが悪く、優等生として生きてきた彼には、もしかしたら腹を割って話せる相手があまりいなかったのかもしれない。
強がりで素直な人
では、ジェハたちと出会った後のセインはどうしているだろう? Aデパート地下での戦闘後に駆け込んだ病院で、彼は自分の生い立ちについて6人に話す。ここにも、彼のある癖が表れている。
彼には、どうやら強がりを言う癖があるらしい。仲間に対して「俺を守れ」と言うときも、セインは決して下手には出なかった。
初めて自分の家族のことや、ボムに丸呑みにされた経験について語ったときも、それは変わらない。そして「自分語り」で即座に強がりを否定する。数々の”本当はこうだった”を、セインは飲み込み続けてきたのだ。
この癖によって、セインの話す内容と描かれた事実とが、たびたび食い違うことがある。しかし、そんな彼が心からそうと思って話していること、つまり口から出すことと「自分語り」の内容が一致していることも存在する。それが冒頭でも取り上げた23話のセリフだ。
彼は、ジェハたち6人とボムとの関係性を整理し、その上で「彼らの前では自分が抱える問題などちっぽけに思えた」と考える。「ボムによって不幸になった」6人と、「ボムが現れる前から不幸だった」自分を比較するセインは、ある新しい視点を『CHAKHO』へと導入する。
名もなき「ボム」がセインにもたらしたもの
「ボムだからって、悪者ばかりじゃねえだろ」とは、病院でジュアンの告白を聞いたドグォンが発した言葉だ。ジュアンはこのとき、生前のナレから力を譲渡されたことを明かし、ボムへの憎しみで重く沈む病室で、ただひとり「ボムにも良いやつはいる」と声をあげた。
言うなれば、ジュアンは「個人」としてのボムに目を向けていた。それを受けての発言が、ドグォンのセリフだったというわけだ。
ここで改めてセインの話を振り返ってみると、面白いことがわかる。
セインは、自分を食べたボムのことを終始「ボム」と呼び続ける。それは口に出す言葉でも「自分語り」でも変わらない。つまりセインにとって、自分を食べたボムはただの「ボム」でしかない。
これは一見、ジュアンと真逆の考え方に思える。これまでの「すべてのボムを憎む」姿勢に逆戻りしかねない。しかし、そうならないのは、セインが「ボムに出会う前から不幸だった人物」であるからだ。
セインは、幼い頃から疎外感を感じていた。誰の顔色も伺わなくてよくて、小さなことでも褒めてもらえる居場所がほしいと願いながらも、実際は「裕福な家に生まれ育った優等生」として生きてきたのだ。
だからセインにとって、ボムはトラウマではあっても、自分を不幸にした存在ではない。むしろ、ボムの存在こそが、セインに「自分は”ちっぽけであろうと”問題を抱えている」と自覚させ、苦しみを吐露できる仲間との出会いをもたらしたのだ。
「ボムは皆憎むべき存在である」としてきた序盤のスタンスから、ジュアンによって「ボムにも良いボムと悪いボムがいる」という見方を獲得したジェハたち。セインはそこに、「そもそもボムがすべての不幸の源なのか」という疑問を新たに投げかけた。
もちろん、ボムが大勢の人々を殺したという事実は揺らがない。しかし、それが「すべてのボムを殺すべきである」という根拠にはならないのかもしれない。
冒頭の問いに戻る。「ボムによって不幸になった人物」と「ボムが現れる前から不幸だった人物」の間に上下はあるのか。セインの抱える問題は、本当に「ちっぽけ」なのかどうか。
わたしはそうは思わない。ボムが現れて世界は一変したが、苦しみは、ボムが現れる前から続いている。人の生死に関わらなくても、誰かを苦しめる不幸がたくさんある。ひとりぼっちだったセインは、強がりを重ねながら、自分の不幸を受け入れる一歩を踏み出した。それは同時に、『CHAKHO』の物語をも一歩前へと進めた。
勇気あるセインの一歩の先に、彼にとっての幸せがあることを願っている。