【法学部生向け】 バスはなぜ動く? 大学院に行った理由 水曜夜の若者会
こんばんは。勝手に会を始めてしまったlotterです。
今日はわたしが大学院に入った理由についてお話ししたいと思います。
誰が興味あんねん!系のお話ですが、もしかすると誰かの役に立つかもしれないので、「ふーん。そんなこともあるんだ」ぐらいにのぞいていただければ嬉しいです。
1.なぜ大学院に行かなかったのか
はい。いきなり逆説的な入りです。こういう話し方をすると仕事では嫌われてしまうことがあるので、気を付けましょう。
でも、ここから話す方がいいかなと思ったので。
以前も書きましたが、わたしは、
法学部→法科大学院(ロースクール)→司法試験(司法修習)→民間企業(弁護士登録)→法学研究科(博士課程)
というルートで今に至っています。
なぜ大学院に行かなかったのか、というのは、なぜ法学部を出たあとすぐに法学研究科ではなくロースクールに行ったのか、という意味です。
ロースクールは基本的には法曹を養成する流れの中にある大学院です。かたや法学研究科のメインはいわゆる研究機関としての大学院で、研究者を養成するところです。もちろん、実際はそうではない部分が多分にあるわけですが・・・。
そのため、両者は受験の仕組みから講義内容まで全く違います。大学によってはそうではないのかもしれませんが、学生がやっていることはかなり違うでしょう。つまり、普通は片方やってるうちにもう片方もなんとなくできている、というわけにはいかないのです。
ということで、大学院に行くとしてもどちらか選ばなければなりません。法曹コースか学者コースかということですね。そして、学部4年生のわたしには、学者コースの魅力が一切わからなかった。というか、学者って社会貢献してないよねという、めーーーーーーっちゃ失礼なことを思っていました。ごめんなさい。
法曹実務家は少なくとも目の前の事件を法的には解決していっているので、わかりやすかったんですね。なので、友人の「お前は学者気質だ。というか実務家には向いていない」という10:0の意見は全て無視し、ロースクールに進学しました。
まあ、もっとさかのぼれば、そもそも大学院に行こうと思った理由に「就活したくない」があることは秘密です。
2.判例・通説のワナ
この学者に対するハイパー激烈失礼な態度は、判例・通説にハメられたからです。
学部生の頃なんて、判例が採用している見解や通説の内容をちょっと見るだけで、少数説なんて見たこともなかった。いわゆる論証パターンを見て、なんとなくそれで答案を書いて単位は取れたので問題なかったんですよね。
それにより、そもそも判例が採用していないし通説にもなっていない学説になんの意味があるんだ?って思うようになっちゃったんですねー。判例や通説の見解もちゃんと理解してないくせに。なんて生意気な。
判例・通説に完全にハメられたわけです・・・はい、すみません。わたしがちゃんと勉強しなかったせいです。
でも、言い訳をさせていただけるなら、ロースクールでも少数説にはあまり触れていません。そこまでやる時間がないというのが主な理由ですし、試験で点数を取るためには仕方ないという言い分もあります。だから、ロースクールを出ても、さっきの考え方はあんまり変わりませんでした。さすがに判例・通説を理解するよう努めはしましたが。
3.バスはなぜ動く?
司法修習では何も起きなかったのでスルーします(oh・・・)。
民間企業に就職し、いろんな人たちといろんな仕事をする中で、法的な思考ってかなり使えるなということが徐々にわかってきます。あの立場からならきっとこういう主張がくるから、こっちはこうしようみたいに考えるわけです。法曹実務においてこの「相手目線で考える」という思考は必須なんですが、法学で言えば反対説みたいなもんだなとどこかの時点でふと思ったんです。そして、「相手目線で考える」ことで自分の主張はやっぱり洗練されていくんですよねー。
そんなことをなんとなく思っていたまたある日、ふと、バスってなんで動くんだろう?ということが気になったんです(気持ちわるっ)。
わたしは普段、バスに乗って仕事に行っているんですが、わたしを毎日運んでくれるこのバスが動く仕組みが気になったんですね。ほら、自然でしょ?
正確には、「バスってなんで動いていると思う?」というアバウトな質問をしたときに、理系の人は動力の仕組みや摩擦のこと、あるいは燃料のことを話すかもしれない。わたしは、バスの運転手とバス会社が雇用契約を締結していて、運転手は会社からそのバスに乗って決まったルートを決まった時間で運行するように指揮命令されているから、と答えるかもな。と思ったんです(はあ?)。
このバスの例って、正解がないんですよね。どれも正解というか。ただ、見てる視点が違うだけ。バスが動くという事象をどうやって説明するか、おおげさに言えば世界の見方が違うだけ。そして、みんなそれぞれ持っている「世界の見方」を持ち寄って、何かを説明するというのはとても良いことに思えたのです。
この2つから、これが少数説の役割で学者の仕事なのかとこれまた勝手に思ったわけです。いろんな見方を持ち寄って、正解がないところに共通理解を生み出していく。判例が採用していない・通説ではない説も、その見方があるからこそ判例や通説は洗練され、法がより良い方向に進歩していけるのだということに、本当になーんとなくですが気付いたんです。それが合ってるかどうかはこれから確かめに行くのですが。
4.弁護士ではできないこと
博士課程に進学したって周りに話したら、大体「ルールを作る側になりたいの?」と聞かれます。
どうなんだろうか、そういう気持ちがないわけではないと思いますが・・・今のルールも十分使い切れていないと思っているのです。正直。それなのに新しいルールばかっり作ってもね。
ルールを作るのは弁護士でもできます。法律の改正に携わっておられる方もいますし、判例変更をした事件に関わればそれもルールを作ったと言えるような気がします。
でも、今のルールが十分機能していないのではないか、もっとよく使えるんじゃないかということを個別の事案を離れて解き明かしていくのは、なかなか弁護士ではできないんじゃないかなと。これも今から確かめにいくのですが。
5.まとめ
とりとめなく長くなってしまったので、まとめも特にありません(ないんかい!)。
仕事をする上で議論は避けて通れません。大きなものから小さいものまで、規模は様々あると思いますが、その議論に「少数説」はありません。自分の主張を精一杯し、相手の主張を精一杯理解する。それを教えてくれただけでも、普通に働いてよかったなあと思います。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
よろしければ他の記事ものぞいてみてください。
では、また。