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獅子王の旅立ち

扇風機の風を受けながらお腹にタオルケットをかけて、大好きな本を読んでいるうちにウトウトする夏の昼下がり。「昼寝の時間よ」と言われて、そんなことより、この続きをずっと読んでいたいのに~!なんてブーブー思いながらぎゅっと目を閉じたくせに、いつのまにかスヤァ。そのうち、夕立なんかが訪れて、薄闇と共にきたヒンヤリした風が起こしてくれた。あれは至福の夏だったのだと思わずにはいられない灼熱の8月が去っていった。入れ替わりに、野分を呼んで・・・・。

雷雨に打たれた夜が明け。柴山にて私は、思いがけない報告を受けた。

1月。記念すべき私のnote初回に素敵な思い出をつづらせてくれた、あのご老人が、コロナによりご逝去されたと。

8月の初め。「こけてもーたんや、ソコで」と、額から大出血しながら、そのご老人・Sさんは柴山に入ってこられた。ああ、大変!と一同総出でお出迎え。「思いきりこけはったんやねぇ💦痛かったねぇ💦」と、あまりの出血におののきながらも声をかけたら、彼は「大丈夫や!わしゃ戦争帰りや!」と、にんまりと笑われた。そっか、そうだよね!と頷きながら診察室へ送り込み、待つこと半時間。

結局、ナートが必要なほどのケガだった。だけど、Sさんは1月の頃より、ずいぶんシャッキリされていて、柴山先生も「Sさん、怪我は大変やったけど、前きはった時より元気やわ!がんばったはるんやね!」と、チクチクやりながらも、どこか嬉し気な声で話をしていた。

「そうでっか?こんなけったいな病気はやって、油断しとったらお前みたいなんすぐ死んでまうぞ!て息子にもいわれるからな。そんなもんかなわんやないかい!て、しっかり食べてんねや!」。おお、Sさん、デイケアにも行き始めたし、薬も少しは効いてるのかもだし、何より、その心意気ね!ごめんね、飛行機の非常口あけるのでは?なんて邪推して!と、私は診察室から漏れ聞こえる会話に、ニヤニヤしながら耳を傾けていた。と、同時に。

そういえば、Sさん、インドいったわけ?あの時、パスポートとれたと見せてもらったけれど、あの後すぐのスケジュールなら出国もできたの?と、ふと思った。そして、会計時、私はその疑問を彼に投げかけてみた。

「せやねん。息子がワシを引きずり回してなんや手配しよったんやけどな、旅行にはいかれへんかったんや。インドいくんやったんやで!スマトラ虎や!知ってるか?インド!スマトラ虎!」。スマトラ虎って、スマトラの虎やろ?それはインドネシアやで(^^)/と心の中でツッコミながら、私は「あーーー、そうなんですかぁ、やっぱりコロナのせいやねぇ」と嘆いた。

せや!と勢いよく答えながら、Sさんは「ほな、これから毎日、ちゃんときまっさ!先生が消毒してくだはるゆーた」と、小銭入れにちゃんとお金をおさめた。それは私にとり「ずいぶん若返った…」そう嬉しい溜息が出るほどの光景だった。もちろん、1月のSさんも味わい深いSさんだったけど、この禍の中で、彼がしっかりと地面を踏みしめて生きていることが、私の心にも、パーッと光を射してくれた。

処方箋と領収書を渡して、こっちが処方箋ね、お隣の薬局でお薬にしてもらってね☆と、カーテン越しに説明したら「えっしゃ!ほな、さいならー!」と、Sさんは元気に帰っていった。保険証をカウンターに置き忘れて!

ぎゃー、保険証!!と後輩が飛び出していき「おお!すまん!これなんや!!??」って大声が玄関から聞こえて、全員でずっこけながらも、Sさんは健やかでよかったね、と話し合った。先の見えないこの毎日に、心をモヤに覆われてしまうお年寄りも増えているから…。

その後しばらく、シフトの都合で、私はSさんとは会えなかった。最後に会ったのは、通院処置が終了した日だった。

私 「傷、治ってよかったですね!」

Sさん 「うん!やっぱ病院きたら早いな、先生が綺麗に治してくらはった!」

私 「Sさんも毎日、お疲れ様でしたね、暑い中をね!」

Sさん 「かまへん、ええ運動や、達者なるわ!服、すぐベチョベチョなるから、それが大変や!」そこで私はSさんのTシャツに目をやると…黒いTシャツのど真ん中には、ものすごく大きなホワイトライオンのドアップが、とても写実的に描かれていた。

私「すごいライオン!こっち見てる~!!!(←アホ)」

Sさん「すごいか?これな、獅子やで!ごっついやろ!」

私「ごっついですねぇ!かっこいい!」

Sさん「せやろー、これ息子がガイコクで買うてきたんや。家には虎のんも熊のんもあるんや。しやけど、ワシは獅子や!名前も獅子やからな!」

そうだった。漢字は違うけど、Sさんの姓名を合わせたら、ししお、にも読めるやん!と私は気づいて「なるほど!!獅子ですね、Sさん、獅子王や!(←どこまでも気楽!)」と笑った。

「そうか!獅子王か!かっこえーな!」子供みたいな笑顔で、Sさんはガハガハと笑った。「インドにも獅子おるやろな!スマトラ虎もおるくらいやから、そらおるでな?でっかいどーーーー!」獅子王の笑い声が、私たちを隔てるカーテンを、その日も揺らして爽快な風をくれて、私たちは一緒に笑った。

今度はいつものお薬だから、またこけないように、気を付けて来て下さいね!そう手を振ったら、獅子王は「うん!さいなら!」って、笑って帰っていったのに。

柴山先生によると、獅子王は9月初めに、路上でまた転倒し、救急搬送された。そして、搬送先でPCR検査を受けた結果、陽性反応が出てしまったのだ。そのまま指定病院へと再搬送された獅子王は、とても頑張ったけれど、数日のうちに、その人生を終えた。

誰のせいでもない。人生の最後がどうであれ、獅子王がこれまで歩いてきた日々の価値が損なわれることなんて、ほんの少しも、ありはしない。

だけど、私はほんとうに悲しく、さみしく、せつなくて。なんにも言えなくなってしまった。

獅子王、いま、どこを歩いているの?ちょっと欠けた前歯の、ちょっと小さめの、いつでもカンカン帽を小粋にかぶった、ちょっととぼけた獅子王。息子さんの愛したインド、見に行ったりしたらどう?スマトラ虎だって、そこで獅子王を待ってるかもしれないし、インドの獅子王が出迎えてくれるかもしれないよ。もうどんな病気にもかかったりしないから、何にも気にせず、たくさん遊んでくればいいよ。獅子王、あんなに転ばないでねって言ったのに、また転んでいたんだね。救急車呼んだ人に、呼ぶな!と怒ったって聞いたよ。その時にはすでに、アイツは獅子王にとりついてたって、わかっているけど、ケガだけなら獅子王はまた、戻ってこれたかもしれないのに。

あの最後の日の「さいなら!」は、今でも私の耳の奥でリピートされてるよ。また会えると思っていたから、獅子王、わたし「お大事に~!」としか言わなかったね。当たり前だけどさ。

だから獅子王。この場を借りて、あなたに最後のお別れをおくります。

獅子王、この人生をしっかり歩いて、おめでとう。戦争もくぐりぬけて、きっと沢山のことも乗り越えて、喧嘩しながらも息子さんたちとも渡り合って、いつでも柴山では堂々と、ありのままの姿を見せてくれた。獅子王が今、どんなことを想っているかなんて、私にはおこがましくて想像もできない。でもどうか、風をくれたあなたに、心地よい風が吹いていますように。そのタテガミがそれに揺れて、広々とした場所で、好きなように、好きなときに、ガオ―――とか何とか、吠えていられますように。

獅子王、さようなら。

でも、なんか、そういうのは獅子王と私に似合わないから、やっぱりこれかな。

獅子王、さいなら!ありがとう!またいつか!!!!

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