そう思っておくほうが
別段、衝撃的でもなければ深みもないような出来事を、ふと、日常の瞬間に思い出すことがある。誰にでもきっとあると思うけれど。
私には、そんな瞬間に、20年来変わらず出てくるシーンというのがいくつかあって、最も頻度の高いのが『受験会場でのソレ』。
とある大学の試験を地方都市で受けた。もちろん周りに知り合いなどなく、人生初に踏み入れた土地での受験だった。会場が学生たちで満たされるにつれ、聞きなれない方言のひそかなザワメキが耳を打つ。
私は、知らない土地に今ひとりなんだなぁなどとボンヤリ(ボンヤリするな)しながら、そのザワメキを聞いていた。背中に八ツ手の葉っぱを貼り付けて。
『八ツ手の葉っぱは、天狗の団扇。背中を押して支えてもらえるように、下着に貼りなさい』と、親類の素敵なおばさまから教わったオマジナイである。
そのうち、会場のザワメキはもしや、この背中の八ツ手がセーター越しに浮かび上がっとるからなのか⁉️それで皆、ザワザワしてるのか?と妙な妄想をするほどに、私は一人だなぁと感じていたのだ。ちょっと私の背中見てくんない?と頼める人もないほどに。
そうこうする間に試験は始まり、3科目めに突入した頃だった。
揺れてる?
回答する手を止める程の違和感を覚えて、私はハッと顔をあげた。揺れはまだ続いていた。
ところが、キョロッと左右を見回しても、何事もなかったかのように、みんな一心不乱に用紙に向かい、ミーアキャットの偵察のごとく首を振るのは私ばかり。
あれぇ、おかしいな、気のせいかな、いや、確かに揺れたけどなぁ、あ、けどこれ、キョロッてるとカンニングと思われるな💦と(ようやく)気づいた、その時。
私の座席から一筋向こうに座っていた女子学生と、バッチリ視線が合った。
『ユレタヨネ?イマ、ユレタヨネ?』
『アレッテ、ジシンダヨネ?』
もちろん見ず知らずの二人は、それでも確かに、言葉もなく、ほんの一瞬見つめあって、それから同時にハッと我に帰って、また試験紙の海へと潜り込んだ。
ちょっと照れたような相手の顔を、お互いの瞳に残したまま。
気づけば試験は終了し、三々五々と帰る人波にまぎれて、私たちはそれきり別れたけれど。
今でも、私の毎日のふとした瞬間に、私は彼女の、ほんとに一瞬『知り得た』彼女の顔を思い出す。結局、私はその大学には進学しなかったし、彼女がどうしたのかも、もちろんわからない。
だけど、彼女は今、どうしているのかな?と思うとき、私の胸は、ほんのりあったかくなる。
元気でいるかな、どんな道を拓いているかな。その瞬間、私はあの時の私に戻り『あの子』のことを懐かしく感じる。
そして、ひょっとしたらそれは彼女も同じで、あの日かわしあったテレパシーみたいに、互いに『あの子』を思いだしたりしているのじゃないか、とも。
人生の、それこそ、ほんの一部を重ねただけの相手を、走馬灯の一景色としてじゃなく、ちょっぴり甘くあたたかく思い起こす。
幸せでいてね。
その気持ちはもしかしたら、いまの『あの子』のところに人知れず届いて、だぁれも見えない聞こえないけど、クルクルあの子を取り巻いて、そしてスーッと空へ消えてくかもしれない。
あの日のことを思い出す時、私の胸がホンワカするのは、同じようなあの子の『クルクル』が私をすり抜けてくからだ。
何の根拠もないけれど、そう思っている方が、うんと心地よい。それを一人信じてニヤニヤできる今を、今日もわたしは生きている。
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