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呪文よ、さらば。

獅子王の旅立ちから5日後。父方の祖母ヨシコも旅立った。念のため記しておくが、私はあらゆる敬意をもって彼女を「ヨシコ」と書いている。もちろん、面と向かってそう呼んだことは一度もないが、「おばあちゃん」という言葉では足りない強さでそこに在った、それがヨシコだから。

ヨシコはあと2か月で100歳を迎えるところだった。とにかく、その激動の人生について、私が知る限りを書けば大長編になること間違いなしの波乱の日々を、ヨシコはどんな時も「ヨシコ」として毅然と乗り越えてきた。母方の祖母が、人生のあらゆる苦難や痛みをとことん受け止め、静かに受け容れる強さで歩いたのに対し、ヨシコはむしろ、己の正義とゆるぎない信念を矛と盾にして、その道程を歩いた女性だった。

ヨシコは賢く、手先が器用で、とにかくよく動くスーパーヨシコだった。和裁のプロで、料理も抜群に上手く、そして、何をしても、美しく仕上げた。理路整然と整えられた室内と同じく、思考も明晰、国会中継に的確なツッコミをする姿は武士にすら見えた。それでいて、何かおかしいことを見聞きすると、カラカラカラカラ!!と、鳥のように気持ちよさげに笑ったり、長州訛りでポン!っと飛び出す合いの手に、思わずこちらも破顔させられる瞬間もたくさんあった。気丈が服を着て歩くヨシコであったが、その服の下には、簡単には他人にも身内にも見せない「胸のうち」があり、時折、見せようとしないその強さゆえに、彼女の影が濃く見えることを、私は幼い頃より、時おり感じていた。

一人で凛とカクシャクと立つこと。それが、ヨシコの矜持だった。だから、夫に先立たれての数十年を、ヨシコはますますヨシコ的なあらゆる側面に磨きをかけながら、まっすぐに歩いた。ヨシコにも年波は寄り、ケガをして手術を受けたり、以前より痩せたりと変化が訪れたが、ヨシコはそのポリシーを決してまげなかった。

「役所が言うに、私はこの町で一人できちんと生きている老人の最年長なんじゃ」(ちなみにヨシコは長州生まれ)。そう語ったときの目の輝きを、私は忘れられない。ヨシコは、そんなに頑張らなくても、とか、ご無理をなさらないで、とか、そういった労りの言葉からは何の喜びも得られない。しっかり者のヨシコさん、老いてなお凛凛として!その言葉こそが、ヨシコをヨシコたらしめる、最もその命に力をくれるものだった。

だから、さすがのヨシコも身体的には不安もあるだろう…と、周囲が子供達との同居やデイケアなどへの参加を提案しても、彼女はキッパリとそれを断った。「私は、一人で最後まで、この家でこの人生を終わらせると決めとるんじゃ。余計な口出しはせんでちょうだい」。

直訳すれば、問答無用。その信念をとうとう最期の時まで貫いて、ヨシコは旅路についたのだ。

私が最後にヨシコと会った頃。ヨシコは小さめのヨシコに変わりつつあった。一日30品目を地で行く勢いで長年きちんと食事を作り摂取してきたヨシコにとり、ヘルパーさんがその役割を担って下さることへの不満がまだあった。その方々がどうというのではなく、自分でその生命の営みをこなせないことに、とても苛立っていたのだ。とはいえ、足元もやや覚束ないヨシコと過ごし、私は思い切って訊ねてみた。

「おばあちゃん、もう少しだけでも誰かの力を借りて生きてみない?」と。

それまで、ベッドに腰かけて、やや弱弱しく近状を語っていたヨシコの目に、その瞬間、鋭い光がカッと射した(獅子の次は鷹である)。

「いやよ。おばあちゃんはね、この家で、好きなように、自分の望むように死にたいのよ。どこにも行かん、私はここでええの!」

まっすぐに私を見つめ、痛いくらいに手を握って放さないヨシコの瞳を、私も無言でしばらく見つめ続けた。

「・・・おばあちゃんの気持ちは、よくわかった。それは、おばあちゃんの、魂がのぞむことやねんね?」薄暗い部屋の中で、私はヨシコに、もう一度そう訊ねた。もう少し明るくすればいいのに。入室した時はそう思いさえした部屋の真ん中、手を握り合って対峙する私たちに、まるでスポットライトが当たるかのように感じたその時。

ヨシコは「うん・・・そうよ。それがおばあちゃんのたった一つの願いよ」とキッパリと宣言した。見ればヨシコは涙を浮かべて、私の瞳の奥の奥、私の魂とやらの底まで届きそうな強い眼光を届けてきた。

「わかった。もう二度ときかない。何も言わない。おばあちゃんは、おばあちゃんとしていきたいってこと、ちゃんときいた」そういって自然と私はヨシコを抱き寄せた。カーッと威嚇されるかと思いきや、ヨシコは枯れた声で「ありがとう」と呟きながら、私の背中に手を廻した。その細さも弱さも、スーパーヨシコではもうなかったけれど、熱量はそのまんまだった。ヨシコはヨシコとしてゆくのだ。それを孫の私は、ただ受け止めて見送るのだ。その時、私はそう決心した。そして「おじさんたちにも、おばあちゃんの気持ちは伝えとくよ」そういって体を離した時に、もう一度、見つめ合った。とても静かに。そして、その時、彼女は私に思いがけない告白をした。そのことはまたいつか、記憶箱の中から「書けば?」と出てくるだろう。ヨシコの許可をもらって(笑)

私たちはあの日、そこでお別れをしたのだと思う。

それからまた随分と経ち、ヨシコはついに、その生涯をとじた。身体は老衰しきっていたけれど、最期まで意志はしっかりしていたので、逝去後についても、ガッチリと遺言されていた。

お骨になっても誰のところにもゆかぬ。私は私の家で回忌を経てゆく、と。

それは「一般的な日本人の常識」に当てはめれば、「はい??」な宣言である。実際、私たちだって「へ????」となりましたとも。ここへ来てもまだ、そこを貫くのですか!!!!と。

だけど、思い返せばヨシコはいつも、どんな時も、たとえ自分が血反吐を吐くほど苦しんだとしても、自分がヨシコでいることにこそ、誇りを得られた女性だった。どんなに世間の常識や「やさしさ」や「思いやり」や「親への敬意」や、何だかんだの「やわらかくまっとうそうなこと」を差し出しても、心からそうしたくて差し出しても。

遺された私や家族の中には、差し出しても受け取られなかったことへの執着や、それを受け取らせなかった可能性へのやるせなさも色濃く残っている。だから、ああそうですか、それが遺言ですか、んじゃ、そのように!とは、なかなかスルリと受け止められないものだった。

特に、父の代わりに、マメにヨシコを訪問し、ヨシコの屈強な心の壁の向こうから、揺らぐヨシコや弱いヨシコの片鱗をのぞかせるところまで辿り着いていた母にとり、本当にそれでいいの?という思いを手放すことは、とても辛かった。だから母は、自分一人でもと、ヨシコの眠るヨシコの家を訪れたのだが、その初日に「ああ、ここへ通うことはお義母さんにとり、何の安らぎにもならないし、喜びにもならないのだ!」と思い知らされる出来事に遭遇した。その出来事は、私たちが捉われていた「人は穏やかに安らかに送られ、眠りにつくことが冥福である。傍にいるもの達は、そのためにそれぞれが出来得ることを粛々と心をこめて行うのだ」という呪文を、見事に吹き飛ばし、消し去った。

母は祭壇の前で「わかりました!お義母さんの気持ちは、もうよくわかりました。しかし、あなたももうこの世界から旅立った方。よき場所へと辿り着かれることを願います」と宣言し、本当の意味で、ヨシコに別れを告げてきた。あの日の、私のように。

現実的なことを考慮すれば、おそらく、ヨシコの遺言が完全に遂行されることは不可能だろう。生きているものには、生きているものの時間があるから。だけどもう、呪文はとかれたのだ。ヨシコはヨシコとして、たくましく立派に生きた。それが最も輝かしい勲章であると、私は何の疑いもなくそう断言する。

もしいつか私たちがヨシコに再会することがあって、ヨシコに「あんたたちゃ、私の言うことをきかんで!!!!」と叱られたとしても、少なくとも私は、胸を張ってヨシコに言うだろう。

「いやいや、私たちだって、出来ることは全てしたよ。それに何より、おばあちゃんの意志を活かしたからこそ、呪文も手放した。あの呪文にかかってるほーが、ずいぶん楽やったんよ、私たちも!だけど、痛みをわけて猛然と決意することの大変さ、おばあちゃんが一番、知ってるでしょ?あなたが遺したその宝刀、確かに私たちも受け継いで、私たちは私たちなりに、折り合いをつけて受け容れた。だから、もうこれで引き分けだよ」

かつて私は、ヨシコの漬ける白菜漬が大好きだった。どんなに真似てみようとしても、絶対に同じ味には仕上がらなかった。ある冬、その絶品の樽をかき回すヨシコの隣で、ボウルに白菜をうけながら、私は思い切ってお願いしてみた。「この白菜漬さ、わたしも作れるようになりたいんやけど、教えてくれる?」。ヨシコは「あんたも好きじゃもんねぇ」と手を止める事なく糠を混ぜていたが、フイッとコチラを見ると「ニッ」と笑った。それきり「教えてやろう」とも「お断り」とも言うことなく、ヨシコはボウル一杯の白菜漬を取り出したあと、作業を終了した。帰りに、その白菜漬をたっぷり持たせてはくれたけど、ついぞ「それじゃあ今度、一緒に漬けようか」とは言わなかった。

あの時も、私は思ったのだ。ヨシコ!やるな!!さすがやな!!!

ヨシコにとり、白菜漬の名手はヨシコ以外に存在する必要はなかったのだ。

世の中、いろんな婆さんがいるけれど、いわゆる「おばあちゃん💛」って響きから想定されるあらゆる甘さや柔らかさとは、まるで対局にあった、ヨシコという婆さん。そもそも、そんな女性に通じるはずのない呪文を必死で唱えている私たちを、ヨシコは最後に「ちがうんじゃ!!!」と斬り捨てて行ってくれた。愛情がなかったわけでは、絶対にない。鷹のような鋭さと強靭な自我、それらに護られた瞬間もたくさんあった。そして、そうなるしかなかったヨシコの思いを、これまた私は簡単に想定することなど出来ない。

だけど、常に己の信念から目を背けなかったヨシコは私に「自分で選び、決めること」の大切さと大変さ、その両方を知らしめてくれた。何かを、誰かを言い訳にして、自分の本音を勝手に押し殺しておいて、何かに誰かに変えさせられたと嘆くことなど時間の無駄!言語道断!!ヨシコの鷹の目はそう告げている。それでも、同時に私は、人は一人では生きられない、生かされていること、そのことから目をそらしてはいけないのだとも思う。

そして、自分ではない誰かに寄り添うことへの覚悟も。そのままを見つめぬく力。そして、手放す力。それを人は塩梅と呼ぶのかしれないが、いずれにせよ、私は今世でその加減について、最後の最後まで、アレコレと悩み思いを巡らせることだろう。ヨシコは私に、まことに大きな遺産をくれた。

それでも、今わたしは、ヨシコのあの白菜漬を、とても恋しく思う。そして、あの不敵な笑みを思い出すと、頬が緩む。お別れのあの日のことより、別れた今、あの樽の前の短い時間こそを、色濃く思い出す。

ヨシコ。私のおばあちゃん。あなたはすごい人でした。

どうぞ安らかに・・なんて言葉、どうして贈りたかったのだろう。

やるな、ヨシコ!!!!!思いっきり、いけばいい。だけど、できたらいつか、あの笑顔を空の向こうから投げて欲しい。

樽の前で、しゃがんでいた私たち。ニヤリとした、あの笑顔。冷たい風の中で、あなたは綺麗だった。


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