2月に入った夜は
明日から2月だな、と気づけば暖かな日が続いていることにも気づく。一昨日だか昨日だかに雪が沢山ふり積もっていたが、二階の窓から白い世界を見つめるだけで、ついぞ自分の足でほこほこの雪を踏むことはなかった。昼前にはほとんど消えた雪には、なんの感慨もない。茶色く枯れた畑や田んぼの残り香のようなものがもわっと並んでいた。それだけだった。その日は1日も外には出なかった。
ネットの海にはいくつもの感情が溢れていて、悲しみも怒りも奢りも自尊心も慈しみもその他もろもろが、私に棘を刺す。
毎日誰かに謝っている人。
自分の矜持と肯定感の低さとの軋轢でもがく人。
夢をおう人。
ワーカホリック。
死ぬと喚く人。
愛を歌う人。
誰かの承認欲求に当てられる日も多い。当てられて、誰かを否定したくなり、何も無い自分に愕然として、そしてまた、赤の他人の別の感情を検索することの繰り返し。
そしてまた、当てられる。
恐ろしいほどの時間の浪費。
私が生きているのは現実なのに。
わかってるんだけど。
それでも、ネットにある言葉の方が意味ある言葉に聞こえてしまうのはなぜだろう。
現実の自分の言葉や感情は、さらさらとして手応えがない。いつの間にか消えてしまった昨日だか一昨日だかの雪に似ている。
自分の言葉や感情より、顔も知らない誰かの言葉や感情の方が現実に在ると思ってしまう。私の感情など。
短く刈り取られた稲の残骸が並ぶ田んぼ。
誰かにガツンと殴って欲しい。ここに居るべきじゃない、とか、ここに居た方がいい、とか、何も考えたくないから誰かに全て委ねたい。
本当は、嫌だけど、そうするしかないような気がする時がある。頑張るのはもう疲れた。
まあ、頑張ってないけど、と、自分を否定することにも、疲れたんだよな。
土日になると電池が切れて喋らなくなる私を励ますように、夫が濃いビーフシチューが食べたいと言ったので、濃いビーフシチューと、サラダとキャベツの胡椒炒めを作った。
塩パンを添えたら、クリスマスディナーみたいになって豪勢だねえ、と、彼は笑った。
急にチャイムがなって、出ていくと今日から隣に引っ越してきた者です、と、私たちと同じぐらいの夫婦がマスク越しでも分かるぐらいニコニコと立っている。
手土産のお菓子を差し出していたので、社会人らしく遠慮する言葉も忘れて直ぐに受け取ってしまった。本当は、1回ぐらい、「いえいえ、お気づかいなく」とか言えたら良かったのに、私は自分の家の玄関が汚いことで頭がいっぱいで、見られないようにすぐ玄関のドアを後ろ手で閉めることに必死だった。
2人が帰ったあと、何となく気休めで夫の29センチあるスニーカーを靴箱にしまった。
「明日から2月だから来たのかな。キリがいいね」
ビーフシチューを頬張りながら夫が言った。
暖かい日が多いと思ったのよ、と私が言うと、そうでもないよ、と彼は言った。
素足で階段を登ったので足が氷のように冷えている。擦り合わせても冷たいままだ。
夫は階下でまだゲームをして寝る気配はない。
私は1人、あの夫婦に遠慮の言葉を言えなかったことを悔いている。