ターラナータ尊者の「自空・他空の分別」その1
ご無沙汰しておりました、久しぶりの投稿になります。ジョナン派のターラナータ尊者が、サキャ派のラマのチャンバ・ガワン師より、自空と他空の違いをはっきりと簡単に書いて欲しいと言われ著したのが今作で、カカ・タクテン・ラブランから1999年に小冊子として出版されたものを何回かに分けて私訳しようと思います。よろしくお願い致します。
またジョナン派に関しては、
International Jonang Wellbeing Association
などHPもございます。英語かチベット語になりますが、よろしければそちらもご覧下さい。
自空・他空の分別 了義の入口 意訳
今回考える内容は(インドの)大乗仏教の哲学の二学派から、(いわゆる)瑜伽行派といえば弥勒菩薩、無着、世親、陳那、法称など唯識を唱える流派の教学(を指しますし)、(根本経典が)「解深密経」というように第三転法輪に則った教えになります
(いわゆる)中観・無自性を唱える流派の教学といえば、聖者龍樹戒師の中観論書の教えから仏護、清弁、月称などが解釈された第二転法輪(の中)で直接的に(主体的・自律的実体・本体のない空を)表現された教え(の体系)です
この二学派(の中)で、チベットでは自空中観派として知られる中観無自性を(唱える流派を)継ぐ方は、瑜伽行派を唯識派、中観無自性派を中観派とします
他空中観を唱える、第三転法輪の教えを究極の了義経(究極の真実の教え)と解釈する方は、中観無自性派はいわゆる中観派の教学ではありますけれども、中観には一時的な了義と究極的了義の二つがありますから、第二転法輪は一時的な了義(究極の真実に導く教え)である(とします)
第三転法輪を支持する流派(の中)でも、一時的な教学として、「依他起性の存在は真実に存在し他にも(円成実性の存在も)真実に存在する」と唱えるのが(いわゆる)唯識派(の教え)です
(究極的教学としての他空中観は)「遍計所執性の存在と依他起性の存在という、(一般的な)認識主体客体に集約される存在は全て究極的には存在せず、円成実性の存在(と同体)である智慧は究極的に存在する」と説く教学で、他のチベットの方が無相唯識派と説く教えを究極の了義・大中観と考えます
ですので、自空を提唱する方は、初転法輪を未了義経(一般的真実の教え)、第二転法輪を究極の了義経(究極の真実の教え)、第三転法輪を一時的了義(究極の真実に導く教え)つまり未了義経と考えます
他空を提唱する方は、初転法輪を未了義経、第二転法輪を一時的了義経、第三転法輪を究極の了義経と唱えます
しかも初転法輪で(お釈迦様)は、声聞と共通の教えなので、「一般の存在(いわゆる素粒子など)は究極的に存在する」と説かれています
第二転法輪である般若経典群では、「物質から(仏様の)一切を知る智慧まで、全ての存在はそれ自体の本性の力で存在せず、究極の存在はいつの時代にも何処にも存在しない」と説かれています
第三転法輪では、「聖者の智慧から見ると、智慧と同体の究極の存在は、本質が本初から不変なので常なるもの、究極的に存在しますが、概念的存在や物質など対象・感覚器官・8識・心・51心所といった一般的認識主体、客体に入る存在は、実際には顕在化するのが鏡の中の像のように(条件に依る縁起の存在なので)、そもそも(究極の実体のある存在として)生じていませんから、究極的には存在しない」と説かれています
そんな訳で、(第三転法輪の根本経典である)「解深密経」に「声聞の教えを実践する方に初転法輪、大乗の教えを実践する方に第二転法輪、様々な教えを実践する方に第三転法輪を説きます」とあり、(そこでは)「初転法輪と第二転法輪にはまだ上がある、一時的な教えであり未了義、矛盾点があり、第三転法輪は無上で、最終的教えで了義、矛盾点がありません」と説かれています
その他にも、第二転法輪で「全ての存在は本性がない」と説いたのは、遍計所執性・依他起性・円成実性の存在と、それぞれ無自性のあり方が三種類ありますのでそのよう(に説かれたの)であり、究極の存在がまったくあり得ないと説いたのではありません
「(前世からの業の影響を)引き受ける意識は奥深く繊細、業の種全てが(その中にある)川の流れの如くあり、(これらを究極の実体・本体の)自分と判断するべきでないと、(今まで)第三転法輪を一般の方に私は説きませんでした」とあります
初転法輪で全ての存在は(究極的に)存在すると説いたすぐその後に、この(究極の)存在が究極的に間違いなくあると説きますと、有情には(始めのわからない)過去から存在には実体があると認識する習慣がある所に繋がる為に、人の実体と判断してしまう根拠となり得ます
その為に、第二転法輪ではこの煩悩障・所知障に影響を受けない(法)界があると説かず、全ての存在には実体がないという事を事細かに説かれたのです
それに対して、自空を唱える方はいわゆる第三転法輪の経典、その中でも楞伽経自体も「究極の真実に導く教え」と主張します
その理由も、第二転法輪は教えの対象として大乗の素質がある方のみに説かれたと見受けられるので了義(究極の真実の教え)、
第三転法輪は様々な段階の色々な考えの方を煩悩から自由にするために説いていますので、未了義(究極の真実に導く教え)であると主張し、理論上も成立するとします
たとえば(究極の)唯一の存在か複数の存在かを(分析しそれらが)あり得ないとする論理で、灌頂瓶など(究極の)真実の存在ではないと確定しますと、同じ根拠で(聖者の)無分別智も(究極の)真実ではない存在と確定し得ます
究極の唯一と究極の複数の存在が成立しない等、その理論は全ての(存在の)分析に共通し通用しますので、(全ては究極の)真実の存在ではないと成立すると主張します
それ以外でも、無相唯識派の教義が中観であるなら、(それらは認識と同一本体なので)唯識派の(根拠となる)経典も論書も、(意識)外の存在として存在しなくなる等(教義に)欠点がある、と批判します
自空・他空の分別 了義の入口 1 終了
「タンカは Jonang Foundation より」