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社会の不条理

日本は裕福だ。そんな思い込みをしていた。この思い込みに終止符が打たれたのは、ある大学の授業を受けたときであった。その授業の教授は、ジャーナリストである。この教授は、「社会の不条理」に向き合うことを常日頃説いていた。

 とある回の授業のこと。その回のテーマは、「ホームレス」であった。私たちの住む日本は、裕福である。いや、そう思い込んでいるのかもしれない。しかし、目の前の街をよく眺めてみよう。僕らは、勝手に見てみぬふりをしている、誰かがいるということに気づくだろう。そう、ホームレスである。彼らには、それぞれに人生のストーリーがあり、ほとんどの人は、ホームレスになることを望んではいないだろう。いや、全員が望んでいないと言ってもいいんじゃないか。だって、子供の頃から、ホームレスなんていないはずだ。大人に守られて、育ってきているはずだ。そうなのに、いつの間にかホームレスにならざるを得ないときがきてしまったのだろう。だから、人生、生まれたときからホームレスなんていないはずだ。

 ある人はこう言う。ホームレスになるのは、彼らが怠惰なせいだ。と。正直なところ、僕も、大学で授業を受けるまでは、そう考えていた。しかし、これもまた違うと思い知らされた。日本には、生活保護制度がある。だから、本来、全国民に最低限度の生活が保障されているはずだ。しかし、それでも制度をすり抜けて漏れてしまう人がいるのが現実であると知ったのだ。そして、またホームレスとなってしまうのだ。私が授業で見た場合でいうと、生活保護を受けたが、就労を希望しており、就労をしたところで生活保護は打ち切り。その後、餓死というケースだ。こんなにいたたまれないことがあっていいのだろうか。私は、このとき初めて、日本にも、こんなに格差があるということを知った。なぜ、こんなにも裕福な国のはずなのに、こんなことが起きてしまうのだろうか。本当に自己責任なのだろうか。

 これは、他の授業でのこと。社会学の教授が、ポロリとこんなことを言っていた。ホームレスがいない社会はない。誰だってホームレスになり得る。と。これは、ちょっとした雑談であったからそれ以上の話はしていなかった。僕は、このことをもうちょっと考えてみた。きっとこういうことだろう。今就いている職。それは、いつクビになるかわからない不安定なものである。いつ、身体不随になり、家族が消え、孤独になり、頼れる人がいなくなるかわからない。人間は、集団の中で、蜘蛛の巣のようにさまざまな人と繋がっているが、一瞬にして、そこから離脱し得る。そのとき人は、社会から離脱してしまう。これは、「人間は、ひとりでは生きることができない」ということを表現しているだろう。裏を返せば、人間はひとりになったとき、社会から離脱していき、ホームレスになるということであろう。

 こんな学びをしていくなかでわかったことがある。それは、人間は、優しい生き物でなければならないということだ。誰だって幸せを求めているはずだ。「私/僕なんて死んでしまえばいい」と言う人がいるが、生まれたときから不幸を求めている人などいない。ホームレスになること、不幸になりたがることを求めてしまう人がいることは、社会の責任だ。社会がそうしてしまったのだ。資本主義経済の中で、私たちは競争を知り、競争をし、1位から最下位まで順位づけをしてしまう。そして、最下位にいる人々には、杜撰な生活を強いてしまう。本当は、みんな優しいはずなのに。人間ひとりで生きることができないはずなのに。僕は、資本主義経済を否定していない。むしろ、資本主義経済には肯定的だ。文明がここまで進化したのは、資本主義経済の競争主義のおかげであろう。でも、途中で何かを忘れてしまったのだろう。それは、「人間味」だ。きっと「人間味」があれば、どこかで気づくだろう。「みんな幸せ」が理想の姿であると。誰かの不幸なんて見たくないのだと。

#一人じゃ気づけなかったこと

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