食卓と畜舎を隔てる壁
先日テレビでグルメ番組を見ていると次回の予告偏と思しき画像が流れてきた。
そこには黒和牛とでもいうのだろうか、畜舎にいる黒い成牛が2,3頭映し出されそのすぐ後に、ステーキとして焼かれる牛肉の映像が続いた。
おそらく99%の人々はこの画像の連続性に何の疑問も抱かずに受け入れることであろう。
かつての私もそうであった。
しかし現在の私はこの2つの映像の間に何が欠けているのかを常々考えるようになっている。それは牛だけではなく。
食用に供される畜産動物はどんな形であれ人間の生産計画なり畜産業としてのサイクルとして命を奪われる瞬間が来る。
食用の動物たちは、まさに食に供されるために生まれてきたのだ。
しかしその命を奪う方法がかならずしも動物たちにとって安楽な方法がとられているとは言えないという事実を少なからず知っている私は、調理された食肉を見るたびに、いったいどのような経緯をたどってこの肉はこのプレートに載っているのだろうか?と考えてしまうのだ。
あまり詳細を記載すると読む気を失ってしまう方々がいると思われるので、割愛するが、明らかに畜舎にいる動物たちの映像と食用に加工された肉、あるいは調理された肉、その二つの間には、想像しがたい光景が繰り広げられているはずなのだ。
いやもっといえば畜舎にいる動物の飼育環境さえ、詳細を知れば劣悪以外の何物でもないのだが。
私は完全なヴィーガンではないが肉はまず食べることがない。ただ味覚の記憶は力強いもので、かつて「おいしい」と思って食していたものの記憶が映像としてよみがえってくると、どうしても口にしたいという欲求が湧き起こってくる。
その欲望が生まれた時に、私は必ず畜産動物の劣悪な飼育環境や、命をどのように奪われるかという、これまでネットを通して目にしてきた映像を脳裏に映し出し、それによって欲望を鎮め、抑え込むことにしている。
しかし多くの人々にとってはこの劣悪な飼育環境や命をどのように奪われるかという情報が欠落しているため、冒頭の牛と、ステーキの映像に対比において途中経過を想像する術をもたず、あれはあれ、これはこれとあっさりと受け入れてしまうのだ。
みなさんの今日の三食のうちどれほどの肉を食べただろうか?
その肉は幸せに一生を終えた動物たちのものではない。
人間の食に供されるという最終的なゴールが定まって生まれ、育てられた不幸な動物たちの産物である。
ひとつだけ。ぜひ”妊娠ストール”という言葉を検索して豚の置かれている状況を知ることをお勧めする。
それがあれはあれ、これはこれから少しでも脱却することの一助になればと、願ってやまない。
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