一番好きとか、一番魅力的とかじゃない、自分にとって特別なものだけ。
嵐ファン一筋を一生極めると思っていた私がV6を推し始めた2013年辺りから、「嵐はもう好きじゃないの?」「乗り換えた?」なんて言われるようになった。これはそんな掛け持ちオタクのおはなし。
もちろんそんなことあるはずがない。あれから8年経った今も嵐のファンであり、V6のファンだ。
いまだに「嵐とV6どっちのほうが好き?」と聞かれることもあるが、答えはない。彼らは恋人ではないし、どちらか1つを選ばなければいけないなんてルールもない。私が彼らに抱く「好き」の気持ちはそんな儚いものではなく、生きるために必要な栄養みたいなものなんだ。
嵐は、私にとって気付くといつも隣にいてくれる、家族みたいで、学校みたいな存在だった。週に2回はテレビで必ず5人揃った顔を見せてくれるし、年に数回はCDをリリースし、必ず新しいアルバムを引っ提げたツアーを各地で開催した。毎年のツアーに参加することはできなくても、すぐ手の届くところにいつも存在を感じ新しいものを与え続けてくれた嵐は、私の日常に溶け込んでいた。新しい景色を見せてくれる嵐と一緒にいろんな世界を飛び回り、幼い私の成長に一緒に着いてきてくれるみたいだった。
一方V6は、6人揃って顔を見せてくれる機会はテレビではそうそうない。年に少なくとも1枚はCDをリリースするも、アルバムやツアーは隔年開催で、嵐の供給の頻度に慣れていた私は希少価値の高いものを掴むような気持ちでしがみついた。すごいのは、供給がほとんどない時期が続き枯渇するギリギリまで耐えたところに、いきなりの大量供給で大洪水を起こすところ。そのたびに、なんて限界を知らない人達なんだろうとトキメいた。その大洪水がクセになり、新たな供給のない時期も待っている時間がなんだか楽しかった。過去の作品に触れながら、与えてくれるトキメキのためにどんなときも今を頑張って生きられる私がいた。
そしてその2つの存在があって、やっと私という人間の居場所が完成した。彼らに対する思いを知った瞬間から、どちらか一方だけでは私は完成しなくなった。
違っているからこそ一番なんてない。一番は決められないと言ってもいいし、決める必要はなかった。それぞれにしか持っていない色があるから、どちらも特別だった。
好きになってから、もっと早く出会っていたかったと思った。生きているうちにグループ誕生の瞬間に立ち会い、初めから追っていたかったとすら。どうしてデビューの時に自分は生まれなかったのか、どうして10年目の嵐に、18年目のV6に出会ったのか、何度も何度も思った。
だけど。やっぱり出会うべきタイミングで出会ったんだろうな、とも思う。
嵐ファンになる前、嵐が出ていた24時間テレビを観ていた記憶がある。V6ファンになる前、喰いタンの森田くんもピカンチの井ノ原くんも嵐の番組に出た他のメンバーも、歌番組でのV6も観ていた。でもきっとそこじゃなかった。
やっぱり、吹奏楽の演奏曲で嵐に、インフル休み中に観た木更津キャッツアイでV6に、そのタイミングが私にとって一番の好きになるべき瞬間だったのだろう。そのタイミングで出会えたからこそファンになった。そう感じる瞬間が何度かある。
だからもし、今好きになりかけてもなりきれないものがあるのなら、無理に好きになろうとする必要はない。のちに本当に好きになったとしても、好きにならなかった今の時間を後悔しない。出会うべきタイミングを待っていただけ。
本当はどのグループにもどんなコンテンツにも他の何にも代えがたい魅力はあって、何が一番すごいとか、誰が一番かっこいいとか、そんなの存在しないと思う。
だけど、私にとって出会ってしまった嵐とV6だけは、それぞれが何があっても特別で、他のものに代えることはできなくて。
世間がいう世代交代とかも、私には関係ない。
いなきゃ生きられない、とは言わない。人間は食べるものと着るものと住む場所があれば生活は送れるから。だけど私という人間の人生を私にとって一番良いものにしている存在で、何かに夢中になる人生なら絶対に嵐とV6なんだなあと思う。
活動休止しても、解散しても、私の中で彼らの存在が変わることはない。もしこの先どんなに好きなものに出会っても、彼らに抱く「特別」は変わらない。
「愛」「尊敬」「感謝」「思い出」
全て詰まった、私にとっての特別な存在。