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【LTRレポート】「音風景2024」京都市・白川(琵琶湖疏水記念館〜鴨川)
はじめに
2024年9月20日、ロングタイムレコーダーズの関西支部メンバー3名は、京都の南禅寺に近い琵琶湖疏水記念館(注)から鴨川まで、白川に沿って散策しました。水辺の景色とせせらぎの音を記録し、音風景とレポートをNPOの活動報告として一般に公開するのが目的です。
白川について
白川は、比叡山から如意ヶ嶽にかけて連なる東山(京都盆地の東側にある山々の総称)北部の谷あいに源を発し、左京区と東山区を通って、四条通の北で鴨川に注ぎます。川により形成された白川扇状地には古代から人が住み着き、製粉・精米業、上流で産する花崗岩の加工、花卉(かき)栽培と白川女(しらかわめ)による行商など、特色ある地場産業で栄えていました。
なお、白川の名前の由来は、花崗岩が風化すると白砂(白川砂)になり、これが下流へ大量に流出したことだといわれています。
琵琶湖疏水とは
今回、散策の起点を琵琶湖疏水記念館としたのは、疎水建設という前代未聞の大事業が京都の発展を後押しした歴史も併せて紹介したいと考えたから。明治23(1890)年、琵琶湖の水を京都へ運ぶ疎水が完成すると、水力発電や舟運をはじめ、さまざまな役割を果たしました。そればかりでなく、南禅寺界隈には疎水の水をふんだんに用いた庭園が数多くつくられ、文化的景観の創出にも寄与しています。
疎水は過去の遺物ではありません。水道用水や灌漑(かんがい)用水、工業用水を供給するなど、今日もなお京都市民の生活を支える重要な施設として活きつづけています。
白川下流ゾーンのみどころ
白川は、疎水と流路を共用する区間が途中にあります。南禅寺船溜りで疎水に入り、そのまま500メートルほど西へ。神宮道の先で疎水と分かれて、南へ向かうのです。私たちが歩いたのはここからの約3キロ。京都の中心部に近く、にぎわいを増す下流ゾーンです。
9月下旬にもかかわらず最高気温が36.9℃を記録した残暑日、琵琶湖疏水記念館をあとに鴨東運河(疎水)沿いの小径を京都市動物園、京都市京セラ美術館を右に見ながら進み、平安神宮の大鳥居を過ぎたら仁王門橋が現れます。ここで疎水と分流。橋の下部に流量調節堰が設置されているため下流で増水する危険もなく、川底がくっきり見えるほど透き通った水がさらさらと音をたてて流れ、気持ちの良い親水空間が広がっています。
河畔の白川道を下ること数分、石泉院橋を渡ったところに代々作庭を業とする植治(うえじ)こと小川治兵衛の家屋(現在は本社)と並河靖之(なみかわやすゆき)七宝記念館が2軒並んでいました。いずれも風格ある建物で、つい足が向いてしまいます。海外での評価も高い靖之の七宝作品を季節ごとに入れ替えて展示している記念館の庭は、近代日本庭園の先駆者とうたわれる植治の七代目治兵衛が手がけたもの。時間が合えば、立ち寄って見学されるのもいいと思います。
三条通の白川橋を越えると、岸辺に植えられた枝垂れ柳の枝葉がたおやかになびき、人や車の往来も増えてきます。路地奥にひっそりと建つのは、明智光秀の塚(首塚)。もとは蹴上(けあげ)にあった五重の石塔が江戸中期この地に移されて以来、光秀を弔う場になったと伝えられますが、真相はさて? 花が手向けられ手入れも行き届いているのは、ご近所さんの心遣いによるのでしょうか。私たちも手を合わせたのはいうまでもありません。
塚から下流へすぐ、梅宮橋の脇に石段が敷設されており、水面に降りられるようになっています。家に水道のなかった時代、近くに住む人たちがここで洗い物をしたのか、周辺には同じような水場が数か所残っているとのこと。昔日の市井の暮しが目に浮かぶようです。
京都華頂大学からやや下ったあたりで出合うのが、白川に架かった44の橋のなかで最も古い古川町橋。別名を行者橋、あるいは阿闍梨橋というのは、比叡山での千日回峰行を終えた行者が京都に入る際、最初にこの橋を渡ったことによると聞きました。日の光を受けて輝く白川と手摺りのない石の一本橋は、京都ならではの情趣を醸し出しており、有名な撮影スポットとしてテレビや雑誌にたびたび登場するのもなるほどと頷けます。
次の古門前橋は、その名の通り知恩院の門前にある橋です。川に向かって親水テラスが張り出していて、天気のいい日には地元の子どもたちが家族と水遊びや釣りに興じる光景も見られ、元気な笑い声が響いてきます。
橋を渡って北側に延びるのがアーケード付きの古川町商店街。ひと昔前は〝東の錦〟と呼ばれるほど買い物客で混み合っていましたが、いまはのんびりしてレトロな雰囲気がむしろ若い人の間で密かな評判を呼んでいるそうです。老舗らしい店構えの薬局、本格的な刃物研ぎ専門店、京野菜もそろう青果店など、一軒ずつのぞいてみたい気がしました。
古門前橋の先で右に折れて西行した川は、交通量の多い東大路の菊屋橋の下をくぐり、古美術や骨董の店が集まる新門前通と古門前通の間を進んでいきます。藻や水草が川面に生い茂ってその影に隠れた獲物を狙う青鷺、群れをなして泳ぐ鴨などの姿がそこここに。
花見小路を過ぎ、祇園新橋地区へ。新橋通と白川南通が交差する場所に巽橋が架かっています。橋のたもとの辰巳大明神(辰巳神社)は、伎芸の上達にご利益があるとして花街の女性たちに崇敬される〝祇園のお稲荷さん〟。河畔には歌人の吉井勇がお茶屋「大友」を偲んだ「かにかくに 祇園はこひし 寝るときも 枕のしたを水のながるる」の歌碑があり、戦前の祇園の隆盛ぶりを物語ります。この一帯は伝統的建造物群保存地区に選定されたエリア。軒を連ねる京町家の大半は料亭やお茶屋で、おもてなしの街として世界に名を轟かせています。夕暮れ時ともなると、お座敷へ向かう舞妓芸妓さんとすれ違うなんていうことも……。
白川は縄手通から川端通を経て、四条大橋の少し北側でようやく鴨川に合流。河畔に下り、川の水が勢いよく流れ込む様子にしばし見入りました。河畔の道路を自転車で駆ける人、土手に腰を下ろしてくつろぐ人、ギターを手に歌う人など、だれもが思い思いに楽しんでいます。対岸にずらりと並ぶのは、鴨川の上にせり出すように設けた桟敷席で飲食をさせる納涼床。常連客はもちろん、国内外からの訪問者にも親しまれる、京都の夏の風物詩です。
日が陰ってようやく暑さもやわらいだ夕暮れどき、北山から鴨川を下った涼しい風が心地よく吹き抜けていきます。
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この日、部分的にですが白川沿いに散策し記録できたことは、たいへん有意義であったと感謝いたします。東山北部の谷あいを源流とする白川は、堰を用いて流量を調節したことが功を奏し、上質な親水空間が下流域に生まれました。水深が浅く川床も平坦なため、せせらぎの音は穏やかで、気持ちを和ませるやさしいものだと改めて感じました。
末尾になりますが、琵琶湖疏水記念館をはじめ関係者の方々よりご理解と情報提供をいただいたことに謝辞を申し上げて結びとさせていただきます。
(京)
(注)明治2(1869)年に首都が東京に移ると、京都の産業は衰退して人口の約3分の1が流出、土地の人々の士気は著しく低下した。再興を模索する第3代京都府知事の北垣国道は、都市再生計画を提唱。そのひとつが琵琶湖疎水事業だ。疎水開拓によって日本初の水力発電所が稼働した結果、京都は当時としては最先端の電灯が灯り路面電車が走る近代都市となり、活力を取り戻した。記念館は、この一大プロジェクトに関する資料や映像を紹介する施設である。