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宮崎みよし、そして「プラネットEartH」は、どこから来て、どこへ行くのか?

(初投稿2023/7/14、最終改稿2023/7/20)

1946~ 宮崎みよし 神戸に生まれる。県立神戸高、金沢美術工芸大学彫刻科卒。本人曰く「大学進学は消去法で芸術を選んだ」と。

1979 初個展(神戸・東門画廊)

1980 「アート・ナウ‘82」展(当時の兵庫県立近代美術館)で、存在感を示す。その後、主に関西にて、個展やグループ展で、作品を発表

1993 みよしアートプランニング 設立。ランドスケープデザインを手掛けながら、「アートよ、街に飛び出せ!」と新たな試みに挑む。
神戸・六甲アイランド南端にあるマリンパークにて、「六甲アイランド・ウォーター フロント・オープン・エア・プレイ」と銘打って野外美術展を開催。数多くの気鋭の作家たちが潮風に向かって、創作を展開。宮崎はプロデューサー&作家として、躍動した。

1995 阪神・淡路大震災に遭遇。後に、ボランティア元年と呼ばれることになる市民活動が被災地にて活発化する。開催されていた「Rokko Island Water Front Open Air Play」(略称:RIWFOAP リ・フォープ)を支える市民が集まり、持続可能なイベントにするために「潮風アート基金」を募り、毎年開催への道筋をつける。

2000 NPO法人リ・フォープを設立。各自の専門性を生かした10名の会員とともに発足させ、理事長として、現代美術の企画運営に携わる。事務局として編集者の渡邊 仁が裏方に回り、宮崎を支える。
「地力(ちりき)」展(三宮・磯上公園界隈)、「アートビアガーデン」(神戸・湊川神社)など、街中に打って出たアートが興趣を盛り上げた。

2007 神戸ビエンナーレ アートディレクターに就任。障害者アートの可能性に着目し、若い感性との遭遇を求めていく。

2008 元町高架下(通称:モトコー)にて、ギャラリー&カフェ「プラネットEartH(アース)」を開設。アートの無限の可能性を求め、小宇宙と惑星、地球と大地、を絡めて、地球がアートを挟み込む表記とした。命名は、宮崎、渡邊、そして、当時、阪急・西宮北口でバー「メタモルフォーゼ」を営みながらパフォーマンス・アートを究めていた故・坂出達典である。
設立時の手づくりのニュースペーパーには、以下の檄が飛んでいた。

「プラネットEartH」は、アート&カフェをコアに、さまざまな文化力が惑星となって小宇宙を形成する。

《市井の知恵者が自然に集う/意味・無意味を問う草莽の民が集う/アートの力を信じる者が集う/音楽の本流を浴びたい人が集う/街の賑わいが好きな輩が集う/隣の八つぁん、熊さんお茶のみに集う》

2009 故・東山嘉事(前衛美術家)のオブジェ「モー・モー・モー」、北摂・三田より「プラネットEartH」に到着。その堂々たる姿は、以後、「プラネットEartH」のシンボルとなり、住人となった。
ギャラリーとカフェ(おとなの寺子屋、音楽・詩のライブ、パフォーマンスなど)にて、多彩な感性をもつ人々が行きかい、語らい、創発し合う時空間を提供し続ける。
この間、 モトコーの商店会とも交流をはじめ、場所の力と芸術の力をブレンドしながら、その魅力をイベントや紙通信制作などを通じて、「神戸にモトコーあり」と行政や市民サポーターとも共同作業を展開していった。その活動の成果は、「元高 モトコー MOTOKOH 2011-2014」と題された冊子として結実する(発行:元町高架下にぎわいづくり実行委員会 編集長:宮崎みよし)

2020 NPO法人リ・フォープ、解散。会員の死去や高齢化、後継会員の不在、さらにはコロナ禍等によるもので、やむをえなかった。
それでも宮崎は、「プラネットEartH」という母港の主として、訪れ、集う人々を接遇し、常に高架の音を浴びながら「これ、おもしろいな」「やられたな」と感じさせるものとの出会いを待ち遠しく思いながら、カウンターから目を光らせていた

2023 「プラネットEartH」、JR西日本元町高架耐震工事のため、6月30日にて閉鎖することになる。。
6月22日、「モー・モー・モー」は、生まれ育った三田に帰郷した。
6月24日 フェアウェル・パーティ。14年にわたり、「プラネットEartH」に関わった人々が、集い、語り、歌い、撮影し、食べて飲んで、それぞれの想いで名残惜し気に、やってきては立ち去って行った。
なお、この間の活動記録写真集「プラネットEartH 2008.12.20~2023.6」(写真提供:稲田智子、児玉健二、武田信平、二星幸弘、みやけまさよ、K)にまとめられている。「プラネットEartH」設立当初より、作家&スタッフとして協力してきた、みやけまさよの労作である。
6月30日 撤収作業、ほぼ完了。関係者それぞれに思い思いのモノを形見に、片付けの協力を淡々と主鳴っていたのが印象的だった。 

宮崎みよしは、新たな拠点―いや根拠地と言うべきかーを探しに飛び立つことになる。くたばるまで、「おもしろいな、まいったなあ、すごいなあ、それええやん」という自由自在な芸術精神の具体化を探し求めながら……。

(文責:元NPO法人リ・フォープ事務局長 渡邊 仁)

2023/6/3&4 プラネットEartHでのイベント当日に掲げたパネル
(文字の下;宮崎みよし@Rokko Island Water Front Open Air Play)

◆高架の“音”はメディアとなった◆

→ プラネットEartH 2008.12~2023.5 → どこから来て、どこへ行く?

 70年代初頭、モダニズムの旗頭であった神戸市。神戸という都市の特徴をひとことでいえば?との問いに、京都育ちで、神戸と東京に拠点を置いた辣腕編集者・小島素治が、ポツリと一言。「風、だね」
 90年代に入り、愚かなる金融バブル崩壊後、神戸もその例にもれず、ウォーターフロント開発の波に洗われた。
そんななか、六甲アイランドの南端・マリンパークで、画期的な現代アートの野外展が産声を上げた。「六甲アイランド・ウォーターフロント・オープン・エア・プレイ」という野外アート展である。
 しかし、95年、「神」の「戸」が開き、平成の大地震が、前触れなしにやってきた。あたかも、テクノロジーの「知」を嘲笑うかのように。作家たちが野外に挑戦した作品は、壊されもしたが、少なくない作品は生き残った。破壊された舗道や植栽の復旧・復興とともに、2002年までアート展は続けられ、作品たちは海に向かって、無言の「潮風のうた」をうたったのである。
 ミレニアム騒動の2000年代に入り、J-POPの希代の作詞家のひとり、松本隆は、いま、神戸の人である。60年代末から、松本の言葉のモチーフを貫く通奏低音は、「風街」、そしてそこに生きる人々の繊細な情感といえる。
 東京の都電と摩天楼、神戸の六甲山と茅渟の海、都市を通り抜ける「風」は、ほどよいハイカラ・モダニズム気分を、心地よく味わわせてくれた。
 2008年12月。六甲アイランドでの現代アート野外展のプロデューサー兼作家の宮崎みよしは、「上を走っていく電車の音がいいねん」と、JR元町駅西から延びる高架下、通称:モトコーに活動拠点を移す。
 ゴーッ、ガタンゴトンガタンゴトン、ガタゴトガタゴトガタゴトガタゴト、グワオー、ゴーオン…
 近代が始まった明治の鉄路は、省線、国鉄、ジェイアールと呼び名は変わってきたが、ダイヤグラム通りに、西から東へ、東から西へ、電車、気動車、貨物列車に保線車も、みな鉄路から「音」を発しながら、走り続けている。雨の日も晴れの日も、そして風の日も、頭上から音が舞い、踊り、落ちてゆく。
 「大地から感受されるゲージュツの無限の表現」
 ここに、「art」が大地の「E」と「H」にはさまれた「プラネットEartH」が誕生する。以来、多様な活動を展開していった。
 そして今、2023年。先の戦争で無条件降伏した日本の「戦後」は、政治経済から文化芸術まで、圧倒的なアメリカの影響から始まった。「天皇」という「神」から、「アメリカ」という名の「神」にとってかわられたのである。その「戦後」という廃墟から立ち上がった、庶民のエネルギーの象徴のような「モトコー」の商店が、ひとつ、またひとつと消えてゆく。「戦後」という残り香を払拭するかのように、「モトコー」は、今、近未来に向けて幕を閉じようとしている。
 戦前・戦後を通じた「昭和の匂い」の消滅。ならば、我々は、「失われてゆく面影」を残すしかない。記録という「かたち」で、「記憶」のリレーをつないでいく。
 「モトコー」から去っていく「プラネット・アース」も、また、次なる未知の小惑星をめざして、飛んで行く。

2023年5月        
文責・元NPO法人リ・フォープ事務局長 渡邊 仁
ナレーション・最所久美子

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