読書記録『カササギ殺人事件』~変な被害者と変な犯人
アンソニー・ホロヴィッツ『カササギ殺人事件』上下巻を読みました。
数年前にいろいろと賞を取ったらしく、とにかく帯の惹句が派手。中でも目を引いたのが「アガサ・クリスティへのオマージュに満ちたミステリ」というもの。
ここ数年でクリスティは断続的に読んでいるので、そりゃ惹かれます。ということでネタバレありの感想です。
殺された男が仕込んでいたメッセージ
物語のちょっと特殊な作りとか、クリスティへのオマージュはどんな形で表れているのか、とか、そういうものは色んな人が言っているだろうから、ここでは言わないことにする。
正直、自分が本を読み終えて真っ先に思ったのは、
「あのメッセージはいつから仕込まれていたんだろう?」
ということだった。
『カササギ殺人事件』は、現実世界では「アラン・コンウェイ」という作家が死に、その謎を担当編集のスーザンが追う。
アランは『アティカス・ピュント』のミステリで大人気なのだが、このシリーズの最新作の原稿を受け取ったところ、最終章が欠けていた。
スーザンはこの欠けた原稿とアランの死の謎を追う中、9作あるシリーズの各巻タイトルをつなげていくと「アナグラムとけるか」というメッセージが表れることに気付く。
そのアナグラムが仕掛けられていたのは他ならぬアティカス・ピュントの名前だった。これを解くと、女性を罵倒する言葉が表れる。
なんか変じゃないか?と思ったので、何が引っかかったのか考えてみることにする。
とりあえず時系列にして考えてみる。
アランは小説を書くが(好みのジャンルでは)評価されない
メリッサの勧めでミステリを書く
ここでアティカス・ピュントの名前が決定→すでにアナグラムが仕込まれている
(シリーズが9作になること(=メッセージを仕込む)はここで決めた?)
作品が出版され、人気が出る
続編を書かざるを得なくなる
以下続刊。非常に稼ぐ
転居したり、離婚したり、若い同性の恋人を作る
(シリーズが9作になること(=メッセージを仕込む)は2巻目で決めた?)
病気が発覚する
シリーズ9作目を書き上げてチャーリー(出版社の社長)に渡す
チャーリーが最終章を読んで、アナグラムにの答えを知る
事件が起きる
気になったのは名前のアナグラムではなく、アナグラムの存在を指し示すメッセージの方だ。これはいつ仕込まれたのか。
各巻タイトルにメッセージを仕込もうと決めたタイミングはいつなのか?
主人公の名前は最初から決まっていた。
つまり、作品がヒットする前から「マジくそアマ」と奥さんに対して思っていたことになる。
(奥さんの名前を直接言っているわけではないので、姉を示している可能性もなくはない。が、やはり事情からして奥さんの方を罵倒しているはず)
じゃあこのアナグラムの示唆を、各巻タイトル(それも9作品)に仕込もうと決めたタイミングはいつなのか?
冷静に考えて、「1作目から」はありえない。ヒットするどころか、書き上げた時点では出版されるかどうかも不明だったから。
とすると2巻目以降を書くときに決めたことになる。というか、2巻目のタイトルを決めるときに思いついたと考えるべきだ。タイトル1文字目を順番に並べたら浮かび上がるメッセージなのだから、最低でも2つ目から決めないと成立しない。たぶん1巻のタイトルを見て「いける」と思って決めたのだろう。
そうすると、2巻目を書いた時点で「9作目まで作ろう」と決めたことになる。
何やってんだこいつ。
アランは控えめに言ってバカじゃないだろうか。
1作目で人気が出た。続編を書くことになった。でもこの時点ではあだ2巻だ。
それでいてアランはすでにこの探偵のことが大嫌いだ。なんせこれを書くきっかけになった妻への罵倒が名前に込められている。
にもかかわらず、自分で「9作目まで書こう」と2巻目の時点で決めたのだ。馬鹿じゃないのか。自縄自縛、自分で自分を嫌いなジャンル地獄へ縛り付けたのだ。
何年もかけて自分を嫌いなものに縛り付けて、その間に金は稼ぐものの妻と離婚したり姉に頼りすぎたりドラマ制作者に無理を言ったり隣人と投資トラブルになったり・・・。
作中でもアランは周囲の人物に結構な迷惑をかけていて、あまりよく思われていないのがわかる。
が、それも嫌いなシリーズにかかわり続けるストレスによるものだったとしたら?
実際、シリーズが人気になって人が変わったようだという話も作中には出てきていた。
だとしたら自分で阿呆な計画を立てたせいで、周りの人に当たり散らしていたようなもので・・・しかも最終目的がごく平凡な罵倒語っていうのが、なんだかもうバカバカしい。
やはり牧師が語った、学生時代の姿がすべてなのだろう。執念深く嫌な奴。父親似ですかね(投げやり)。
とはいえ、2巻が出て売れて、3巻を書いて・・・とやっている間に、ふと我に返ったりしなかったのか?なんで自分は嫌いな小説を書いているんだろうと。
今からでも遅くはない、やめてしまえ。行き先を誰にも言わず失踪してしまえばいいじゃないか(それこそクリスティみたいに)。
そう思って完全に消えてしまうことも可能だったのに、アランはやらなかった。嫌だ嫌だと言いながら書き続けた。ということは、もう小説への執着というより復讐したい一心だったと考えられる。
最後にメリッサを罵倒する。それも全世界に向かって。
そのためなら『面白い』小説を書き続けられたわけか。ふーん。
まあ邸宅買ったりしてるし、稼ぎへの執着もあっただろうが・・・金のために書く自分に腹が立っていたが、その憎悪を妻に転嫁しようとしたのかもしれない。
いちおう終盤で、スーザンが「そもそもの最初、アティカス・ピュントを生み出した日から計画していた。とてつもない執念を感じる」と言っていた。読み終えた直後はすっかり忘れていたが、確かにその通りだ。執念深い。
作中、スーザンが話を聞いた人たちは、ほぼ全員が「アランがいかに嫌な奴か」を証明し続けていた。
だから、そういうことをする人物としてイメージがぴったりだし、何より作中でスーザンが断言しているし。
それをやってのける人物だということで問題ない・・・のだが、やはり引っ掛かる。
ということで、「超執念深い嫌な奴」という単純な判定は、いったん保留にしたい。他にも引っ掛かることがあるのだ。
チャーリーの失策
そもそも、なんでチャーリーは、主人公スーザンに欠けた原稿を渡すことにしたんだろう。
一部を隠して渡したら、そこが気になるに決まっている。そのうえ作者が死亡。となれば担当編集が探すことになるのは当然だ。社長がそれを予想していなかったとは言えない。
最後の方に仕事をクビにされた秘書が出てきて、「すでに何曜日に原稿が届いていた」という証言をする。つまり秘書に「原稿が届いた」ことはバレていたから、原稿を主人公に渡さないという選択肢が取れなかった、ということなのか?
でも一部だけ隠すなんて、探してくれと言わんばかりだ。だが内容からしてチャーリーは「この作品を絶対に世に出したくない」と思っていたはず。
とすれば「いったん受け取ったが、内容に間違いがあって作者に問い合わせ中」「作者からミスがあったので返して欲しいと言われた」とかなんとか言っておけばよかったのだ。
チャーリーの行動は明らかに変だ。しかも机に隠してあって鍵はかけていないとか、犯人にあるまじき軽率さ。
本当に見られたくなかったら処分しておきなよ・・・。社屋ごと燃やすんじゃなくて、さっさと原稿を燃やすべきだったよ。
まあ、処分する決心がつかなかったというのは考えられる。でも処分しておけばラストのようなことにはならなかった。
とにかくチャーリーの心理が謎だ。「一部だけ渡さない」なんてせずに「全部渡さない」とする方が安全だし、ただ故人の葬式に出るだけで済んだ。
にもかかわらず、彼が前者の危ない手段を執ったのは・・・?
もうそれは、作者の都合以外にないのでは?
すべては仕掛けのため
上巻から下巻まで「駆け抜けた」という感じで読んだ。
たしかにスピード感はあった。でも物足りなさが強い。さーっとストーリーが進んで終わってしまった。
緩急がついてなくて、ずっと「急」だったという感じ。だからこそ一気に読んでしまったんだろうとは思う。
ミステリとしては・・・というか、ミステリなのかちょっと自信ないが、事件や物語よりも骨組みの方が目立つ。骨組みというのは、作中作があって、現実でも事件が起きて、その理由は作中作に関わりがあって・・・という作品の構造のことだ。
事件によってあぶりだされる周辺人物たちの性格や人間関係は、被害者アランの嫌な奴っぷりを証明することに重点が置かれている。
小説の登場人物はもちろん架空の存在で、生きてはいない。しかしリアリティとか本物らしさ、「生きている感じ」がある人物が出てくる小説は、良い作品だと言って良い。
そしてこの『カササギ』では、生きた人間だと感じられるような何か(人物の核心的なもの)を持つ人は出てこなかったように思う。共感したり、そういう事情があるなら仕方ないなと思えるような描写はあったけども。
単なる情報提供者。ミステリ的意味でも、読者に情報を差し出すという意味でも、そういう印象だ。
・・・いや、少し変なことを言っているかもしれない。でもクリスティの名前がくっついている作品なので、どうしても人物の核心とか、そういうものが気になってしまう。
この作品はクリスティの要素がちりばめられていて、著者本人もポワロのドラマシリーズで脚本を担当したこともあるので、何かとクリスティが引き合いに出される。
しかし個人的に、クリスティというと「あまり他の小説では見かけない、ちょっと変わった事情や複雑な感情を取り上げている」というイメージがある。そういうものが読後も記憶に残る。『五匹の豚』や『杉の棺』、『邪悪の家』などがそうだ。
『カササギ』にはそういうものが見当たらない。
たしかにアランは異様な執着心を持つ人間で、異常性は高かったが、なにせ物語が始まった時点で死んでいる。回想シーンもない。他人から見た彼の描写しか文中に出てこないので、彼の内心に読者が触れる機会はなく、実感が乏しい。
まあ、あくまで「オマージュ」なので、クリスティに似せたかったわけではないだろうから、こんなことを言っても仕方がないんだけども。ここまで説明したことも、個人の感覚でしかない。
実際、賞を取ったのは物語の作りが評価されたのだろうし。
話を戻すと、私が言いたいのは、この作品は構造第一だ、ということだ。
なので、先に挙げた「チャーリーの行動への違和感」はこの構造のために見逃されたものではないだろうか。
それに「アランがシリーズを書き出したその瞬間から、妻への憎悪を仕込み、それを暴露するために何年もの間自分を地獄に縛り付けた」ことへの違和感も、同じことが原因だと思われる。
映像っぽい文章
ちょっと話は変わるが。
この作品は、読後感が『出版禁止』に似ていたと思った。あれも小説の構造そのものに仕掛けがあり、ストーリーよりもその仕掛けで読者をあっと言わせるタイプの作品だった。
この作品はもともとテレビで『放送禁止』というシリーズをやっていた人が書いたらしい。つまり、どちらも映像畑の人が書いたという共通点がある。そのあたりが似た印象を抱く理由か。
文章と映像では得意分野が違う。活字ならでは、映像ならではの表現が必ず存在する。
その意味では、『カササギ』はものすごく映像向きというか、脚本などと同じく「映像用の活字」とでも言うべきか。
自分がこの作品に感じた「物足りなさ」もこのあたりに由来するのかもしれない。ドラマが嫌なわけではないが、自分はどこまでも活字派なので。
物語の構造がしっかりしすぎというか、骨組みが骨太すぎて、他の部分が少し影が薄くなっている。こういうタイプはあまりピンとこない。
前述の『出版禁止』もそうだし、そういえば『春ゆきてレトロチカ』もそういう感じで、細部が甘かった(なぜかミステリ作家から絶賛されたとの売り文句がついていたが)。
まあ、この辺は自分の好みの問題だ。
カササギ、映像は向いてそう。特にラストは派手に殺されかけたわけで、建物に火を点けたりしたら文字通り炎上、映えるはずだ。
でも、スーザンがあちこち出かけて人に会うパートは、ぶつ切りでちょっとつまんないかも・・・?
ただ今は2024年なので、とうに実写ドラマは存在するし、続編小説も出ている。原作が人気だし、原作者はドラマの脚本家だし、そりゃあ成功のために万全の体制で挑んだことでしょう。
まあ、活字派なのでドラマは見るつもりないんですけど・・・。
続編の『ユウガオ』はどうしよう?
シリーズ1作目がこういうタイプの作品だった以上、2作目も作中作が出てくるのだろうが、また「作中作に何かヒントが!」って話になるのだろうか。
正直、作中作があって、その作者が死んでいて、となれば作中作に死のヒントがあると期待してしまう。
『カササギ』では、その点も弱かった。確かに殺された理由はそこにあったが、あまりにもあっけない。『アティカス』のシリーズの登場人物は、作者アランの周辺人物がモデルだったというのと、アナグラムぐらいしか事件に絡んでいなかった。
読者が期待するのは、どちらかというと「殺された男が書いた作品に、犯人のヒントがある」という展開ではなかろうか。もしポワロものだったらそうなりそうだな、などと思う。
あれ、そういえばポワロって小説読むのか?新聞や手紙を読むとか、本で調べ物をするシーンはあっても、小説を読むシーンはなかったような。
フィクションにはあまり興味がなかったのかもなあ。舞台は別として。
(結局クリスティの話になってしまった・・・)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?