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【短編小説】片づけられない部屋と心

ダンボールの口を開けたまま、私は床に座り込んでいた。

部屋の片隅には詰めかけの荷物が山積みになっている。

本当なら今日中に整理して、
新居に持っていくものと捨てるものを分けるつもりだった。

彼氏との同棲が決まり、いよいよ実家を出る。

「最低限の荷物だけ持っていこう」

そう思っていたのに、手が止まる。

手元には一冊のアルバムが開かれていた。

1ページ目。
小学生の頃の写真。
運動会、修学旅行、友達とふざけて撮ったピースサイン。
ページをめくるたびに、当時の感情が鮮やかに蘇ってくる。

あの頃、私は何の迷いもなく毎日を過ごしていた。
ただ楽しくて、ただ目の前のことに夢中で。

2ページ目。
中学の制服姿。
部活終わり、疲れ果てた顔をしているのに、全員が笑っている。
あの時は「毎日が大変」だと思っていたけど、
今から思えば、あんなに全力で何かに打ち込んでいた日々は、
もうずっとないのかもしれない。

引き出しを開けると、プリクラ帳が出てきた。
流行っていたデコレーション、
雑な手書きのコメント。
「ずっと親友」「一生一緒」「また絶対遊ぼうね」。

「これ、あの子と撮ったやつだ…」

懐かしさに胸がぎゅっとなる。
そのコメントを見ながら、私はふと思い出す。
「一生一緒」って言っていたあの頃。

あの子とは今、連絡を取っていない。
あれから何年も経ち、少しずつ疎遠になっていった。
気づけば、あの約束もどこか遠くに消えてしまっていた。

「一生一緒」なんて、簡単に言えたけれど、
現実はそんなに甘くない。

それでも、あの頃の私たちは本気でそう思っていた。
それが、どうしても切なくて、何かを思い出させるようだった。

引っ越しの準備をしているはずなのに、
私は思い出の中に引きずり込まれていた。

次に出てきたのは、ボロボロになったノートだった。

何気なくページをめくると、
端の方に落書きのような字でこう書いてある。

「将来の夢→先生になること」

「…私、先生になりたかったんだ。」

その瞬間、私はふと一人の人を思い出した。

母だ。

小さい頃、母が職員室で仕事をしている姿を見たことがある。
先生たちと話し合いをしているときも、授業の準備をしているときも、
どこか楽しそうだった。

家に帰ると、母は「今日の授業でこんなことがあってね」と話してくれた。

生徒が笑った話、悩みを打ち明けてくれた話。
母の話す姿はいつも生き生きしていて、私はそんな母が誇らしかった。

「私も、こんなふうになりたい。」

あの頃は純粋にそう思っていた。

でも、大人になっていくうちに、その気持ちは少しずつ遠のいていった。
勉強が得意だったわけでもないし、人に何かを教えることに自信があったわけでもない。

現実的に考えれば、もっと自分に合った仕事があるんじゃないか。

そんなふうに、自分で理由をつけて、
気づけば「先生になりたい」なんて口にしなくなっていた。

でも——。

「やっぱり、なりたい。」

その一言が口をついて出たとき、
胸の奥にずっと引っかかっていたものが、すっと軽くなった気がした。

片付けはほとんど進んでいなかった。
部屋は相変わらず散らかったまま。でも、心はずっと軽かった。

荷物の中に、もう入れるつもりのなかったノートをそっと加える。

「まあ、いっか。」

明日こそ片付けよう。そう思いながら、私はアルバムをそっと閉じた。

でも、ふと気づいた。
片付けが終わらなかったことに、もうそんなに焦りを感じていない自分がいる。

むしろ、少しだけ安心した気持ちが広がっている。

「明日でいいや」なんて、実は久しぶりに自分を許した瞬間かもしれない。

これまで、何かを終わらせなきゃ、何かを決めなきゃ、って思い込みすぎていた。

片付けは終わらなかったけれど、
心はちょっとだけ片付いた気がする。

ずっと背負っていた「ちゃんとしなきゃ」「全部終わらせなきゃ」
という気持ちを、少しだけ降ろした瞬間だった。

新居には、今日出てきたアルバムやノートを持っていく。

片付け終わったら、次はこの気持ちをどうにかして形にしたい。

無理して急ぐことはないけれど、
先生になりたいという気持ちを、
今度こそ無視せずに向き合いたい。

でも、今日はもうそれでいい。明日やろう、片付けは。

少しだけ、心の中の「やらなきゃいけないこと」を後回しにして、
今は自分を休ませよう。

ふっと息を吐きながら、
私はダンボールを片付けた場所に座り直した。

「明日、また頑張ろう。」

そう呟くと、
心のどこかでそれが本当に新しいスタートだと感じた。

今日は、たった一つだけ進んだ気がする。

それだけで、十分だと思える自分に少し驚いた。

ここまで読んでくださってありがとうございました。

「あなたの部屋は、心は片付いていますか?」


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