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花束と言葉の香り

以前、TVを見ていたら、面白い話が語られていました。
仕事の話をたった一言「ヤバいですね」だけで乗り切る人がいるという話でした。
相手がマイナスな話をしたら「ヤバいっすね」と難しそうに言い、相手がプラスな話をしたら「ヤバいっすね!」と楽しそうに言うという半分冗談のようなで、ありえなくもなさそうとイメージ出来てしまう話でした。
ヤバいがこんなに広い意味で使われるようになり、どんな状況でも網羅してしまうようになるとは、言葉というのは生き物なんだなぁと思わずにはいられません。

それにしても、人がこんなに文字に触れたり言葉を使ったりする時代というのはこれまであったでしょうか。
おそらく、今が最も触れられている時代であるのは間違いありません。
にも関わらず、私たちのボキャブラリーが乏しくなっているのは何故なのだろうとも思います。
伝える手段であればシンプルであればシンプルなほど多様な人々に届くというのはわかります。
しかし、私たちは今、こうして、伝えるということの楽しさを覚え、その環境を謳歌しています。
その中で本当に伝えたい言葉は、簡単に口からこぼれてしまう言葉なのでしょうか。
もちろんそれでしかない!という時もあります。
けれど、自分の発する言葉に少しのチェックも入らないで、やたらと使いたい放題というのもいかがなものだろうかと思う場面に遭遇することもまたあります。

表現の自由があるのと同時に表現の責任もあるのです。

もしも「言葉」が友達だったら私は、どんな言葉と仲良くしたいだろう。
どんな言葉と近くにいたいと感じるだろう。
どんな言葉と共に歩いていきたいと思うだろう。
そう考えると、自分が普段使っている言葉にも注意が払えるような気がしました。
自分がそばにいたいのは決して粗雑な乱暴な言葉ではない、という答えが出ます。

普段の生活でも、話していて気持ちの良い人というのは、やはり相手を考えた言葉を使います。
一方、話していて疲れるなと思う人は、たいていマイナスな言葉を使うことが多いです。
朝のワイドショーなんかを見ていると、朝から不安になるような話や恐怖を煽るようなトピックが乱立していて、コメンテーターが訳知り顔で「何か解決案を早急に見つける必要があると思います」とか答えのようで答えでないことを言っているのを見ると、誰も真剣ではなく、ただの時間の埋め合わせなんだなぁと漠然と感じます。

時間を埋めるための言葉が膨大にある現代ですが、その中でも一握りのきらりと光る本当の想いが込められた言葉に出会うと祝福されたように思えます。
もしかしたら、その言葉はあまり使いたくない乱暴な言葉であっても、それでもそこにその人の本当の想いが宿っていたら、それはギラリと光り世の中を睨んでいるのかもしれません。
血の通った言葉はどうしたって人の心を打ちます。

花束を贈られたら、嬉しくて両手で抱えるように、嬉しい言葉をかけてもらえたら、その言葉をやはり抱きしめたくなります。
その花々の発するかぐわしい心くすぐる香りをずっと香っていたいと思うのが人なのではないかと思います。
そういうような心持ちで言葉を扱えたらと思います。