きょうふ劇場 『道成寺』(1976年 人形アニメーション) 川本喜八郎
日本には、古来より“道成寺物”とよばれるドラマの系統があるのをご存知だろうか。
能が起源らしく、その後、歌舞伎・文楽などの古典芸能に留まらず広義では今日に至るまでにほぼすべての芸術で取り扱われているという。その元となっているのが、紀伊(和歌山)の道成寺に伝わる縁起・説話に関連して生まれた安珍清姫伝説だ。更に遡れば、道成寺縁起はそれ以前の今昔物語などに基づいているらしい。
脈々と継承されてきたわりと有名な伝説のため、詳しい内容までわからなくても、どこかで聞いたことがあるな…というかたもおられるのではないか。川本先生の『道成寺』も、ベースは道成寺縁起にある程度忠実と思われる。着想は“道成寺縁起絵巻”のドキュメンタリーから得られたそうだ。熊野詣の最中の旅の僧に一目惚れした寡婦の、豹変と非業の物語である。(元の縁起は寡婦ではない。この設定が、川本版道成寺にリアリティを加えている。)
感想に入る前に、こちらを制作された人形美術及び人形アニメーション界の巨星・川本喜八郎先生について少しお話ししておこう。10年ほど前に鬼籍に入られた際、それまでも年に一度は実物の鑑賞に伺っていた長野の飯田市川本喜八郎人形美術館が一般の来館者にもお別れの期間を設けてくださったので、駆けつけて哀悼の意を示してきたほどの大ファンなのだ。
川本先生を初めて知ったのは実は大分前のことで、子どもの頃NHKで再放送されていた『人形劇三国志』だった。そちらでは先生のご担当は劇用の人形の制作だったと思う。かの著名な『三国志演義』を元に子ども向けに制作されたはずの人形劇のクオリティが、子どもながらにどうも普通じゃないと感じ、強い反応を示したわけだ。物語もわかりやすくておもしろく、毎週楽しみにしていた。大人になってDVDを全巻揃えた時の満足感は言い表せない。
それをきっかけに徐々に川本先生が手がけられた他の仕事にも関心を持ち、世に人形アニメーションという表現があることを知った。先生関連の出版物もできる限り収集し、蔵書として大切にしている。その中でご自身のアニメーション作品に関していくつか制作手法を明かされているが、コマ撮り等、実に気が遠くなるような作業もあり、なるほどそうした技術を基に映像として具体化していくのかと理解はできるものの、敢えて言うなら、筆者的にはどうかしてるな…とは思う笑
今ほどCG技術もない時代に、様々な手を尽くしてとにかくいい作品を作りたい一心でやってこられたのではないかということ。粋な感じで物腰も紳士的なご本人の印象、また映像作品や制作されたお人形から感じられるさらりとした気品からはおよそ窺い知れないような行き過ぎた…いやいや行き切った情熱に、敬意を表さずにはいられない。それは制作に関わられたスタッフの皆様へも同様だが。つくづく凄い世界だ。
それでは『道成寺』を鑑賞しての所感に移ろう。先に作品情報を記す。
《川本喜八郎作品集 Kihachiro Kawamoto Film Works》に収録。
映像時間は19分で決して長くはない。しかしその短時間に重みのあるドラマがあっさり展開される。そこが総括的な見どころというふうに捉えてもいいかもしれない。
サイレントであり、登場人物たちは言葉を発さず、必要な場面でだけごく簡潔に字幕が入る。主に人形の動き・表情や間、さらに音響・ライティングなどで物語が表現されていくのに、物言わぬものたちの声や息遣いまで聞こえてくるぐらい真に迫っている。時間軸にもなる横スクロールでの場面展開が秀逸だ。
筋書き及び演出の点では、サイコスリラーの側面が人形によって霊妙に体現される様相に呆気にとられた。
悪意はなくても方便を使ったために地獄を見る悲劇の美男子・安珍君の狼狽ぶり。ふいに現れた男前に心奪われ無謀に迫るも、熊野詣が済んだら立ち寄るからそれまで待ってくれと言われ、健気に信じていたら、うまく躱されたとわかって、そこから執念で追いすがる清姫様の狂婦…いや恐怖感たるや!(生命がないはずの人形の表情や演技に魅入られて気が動転してくるのか、筆者は毎回要所で思わずふき出してしまう謎の心理状態に。)
一方、すばらしい美術と音楽によって全編に亘り幽玄なムードがただよう。(ちなみにそれらは川本先生とは別のかたが担当されている。)
背景は絵で、水彩がメインか、淡いが風情があり、立体の人形と組み合わさることで映像に趣が増している感じを受けた。これが平面?と目を疑うダイナミックな動きのある荒波の表現なども注目したいところだ。そこへシタールと笛の独特な妖しさ。特にシタールは胸の奥底に響くような音色で、そっと周辺に何事か起こっていないか窺ってしまうほどにぞくぞくする。一連のどこか翳の滲む美しさに妄執と悲哀の愛憎劇が溶け込んで、まさにひととき異界に誘われる感覚を味わえる、紛うことなき芸術作品である。
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以下ではさらに筆者の個人的にも程がある、少々けしからん視点も含まれる細かい感想も併せて述べてもよいだろうか。雰囲気が壊れると思われるお客様は、このあたりでお帰りになられるのもひとつのご選択かもしれません。
取っつきにくそう…と感じられるかたに、そうでもないかもと思っていただける可能性もあろうかと、敢えて添えてみようと思う。多面的に楽しませてくれるのも名作たる証、ということでいかがでしょう。
とにかく清姫の表情の変化はものすごい。カシラ(人形の首から上部分)が2つしか使用されていないとは到底思えない百面相で、逃げる安珍君を鬼の形相で追いかける前の、序盤からもう何となくヒヤヒヤする。
老師とともに訪ねてきた旅の僧を一目見た時の、顔!地味に不穏な効果音や照明の加減が恋する女人に対する表現じゃないだろってことだけは言わせてもらいたい。
夜這いをかける様子も実にスリリングだ。寝ている安珍君の顔を覗き込み、頬にゆらり…と落ちる髪。安珍君は仰天するに留まるが、筆者ならおそらくショックで死んでいる。さすが修行僧。そして法螺吹き。(坊主だけに)←
安珍の命からがらの逃走シーンはまさに手に汗握る感覚だ。筆者的にはこんな目に遭うほどそこまで悪いことしたか…?と思ってしまうが…。(むしろ仏道に身を捧げたストイック野郎じゃないのか。)ただ序盤から清姫はもはや“話が通じない人”の香りがしているので、確かに逃げるしかない。
一度は逃げおおせたと思い、帰途でのんびり休憩中からの、追いついてこられたと知った時の二度見!あの二度見が二度見じゃなくて何が二度見じゃ!キングオブ二度見。絶望感ハンパない。
そして、どうにかして逃れて行く安珍を追いまくり川に差し掛かるも、一足先に向こう岸に渡ってしまった安珍を追うすべがない清姫様、ついに華麗に大蛇に変身!
壁を越える時、人は変わるのだ。(誰か止めて)
ていうか…清姫様……
ク、クロールしてるの………(°□°)???
オリンピックに出場できそうな美しいフォームと無敵感に、ひれ伏すのみ。
…気になることが尽きず、際限がなくなりそうなので、最後に筆者のツボをひとつお話しして締めくくろうと思う。
安珍がほうほうの体で辿り着いた道成寺で、大僧正っぽい坊主の親玉に助けを求めるのだが、この老僧の貫禄が凄まじい。え…生きてるとかないよね?と確認したくなるほどのオーラがあり、何とかなりそうな気にさせてくる。しかし、まさか清姫がここまでの異形となってやってくるとは思わなかったのだろう。妙案むなしく……
元々は明確に誰がよくて誰が悪いというわけでもないのに、無情な結末になることってあるよな…という点においては何ともリアリスティックな話だ。人間ではなく人形が演じることによって不思議なバランスが生まれ、そこがやわらぐ一方で、その容赦のなさをそのまま感じることが可能な客観性にもつながるのかもしれない。そんなことを考えてみるのも、案外おもしろい。
美しく抗いがたい恐さを、機会があれば体感してみるのはいかがでしょう。
それでは、このあたりで!またお会いできれば幸いです。ごきげんよう~。