生きづらさの多様性
近年、「生きづらい」という言葉はもはや流行語のようになっているきらいがあるのではないか。
別段そういった方面に注目しようとしていなくても、一日に一度はその類の単語を目にする機会がある気がする。
本件につき、最初に筆者の総合的な所見を述べるとすれば。
生きづらそうな人が絶対的に生きづらく、生きづらくなさげな人が絶対的に生きやすいのかというと、個人的には全く判断できないといったところだ。というより、しようがない。
もちろん、ある程度、誰がどう考えても生きづらいであろう事象はある。
例えば戦時下。特に戦況が芳しくない上、周辺で建物の破壊や死傷者の数も増加する一方だとか。
災害に遭って大切な人たちや家財を失う、再建の目途が立たず自分の人生もままならないようなケース。
または、先天的、もしくは事故等で日常生活を送るのに影響が大きい病気や怪我を患っていて、苦痛が続いたり後遺症が残ってしまったり。
容貌が、そのコミュニティ内では一般的な標準から著しくかけ離れている。
あと、とんでもない環境に生を受けて、明らかに当人に端を発しない艱難を逃れることが不可能だった場合も。
ただ、このような客観的な生きづらさ以外は生きづらさとは認められないとしよう。すると、個別の事例に関しては切り捨てられることになるのでは。
富裕層や社会的地位が高い家に生まれ申し分ない経歴を辿ってきたとして、その実、家庭内はめちゃくちゃだったとか本人の精神が破綻しているのに、「それでもお金があるんだからいいじゃない」「大したことないでしょ」ということに?
昔話にあるような、難病を抱えた人が、薬も買えない状況でも甲斐甲斐しい世話を受けつつ「何もしてあげられなくてごめんね…」などと詫びられたとして、「自分は幸せだなあ」と心底感じていても、それは生きづらいのか?
こうなると、外部が勝手に判断しきれない領域のことでもあるはずなのだ。
似たような環境下に置かれたとしても、人によって感じ方が違ったりもして一概にはまとめられない。
そもそも環境的要因がさほどなくても精神構造が特異(気にしいが過ぎる、ジャイアン要素が強すぎる等)だったりする場合も。
基本的に本人が生きづらいと感じているのであれば、生きづらいのだろう。
そのために、近くにいる他人まで生きづらくさせる場合もありがちだが…。
ひとつ、他者の生きづらさにむやみに同調するのは注意が必要ではないか。
他人の不幸にも敏感で我が事のように思えると、すぐに「わかる~🥺」とか「自分も一緒~😖」という感覚になるのかもしれないが、そのうち何か違うとか自分のほうが辛いみたいな気になるや、相手を困惑させる人もいたり。
筆者も共感する時はするが、そんなに深く他人の何を知ってるというのか?を念頭に置き、理解できるところはして「お察しします…」に留めている。現実的には、勝手な思い入れによって却って失礼になることもあるからだ。
さてさて。
では、ここからは自身に焦点を当て生きづらさを考えてみたいと思います。
まず、筆者は果たして現状生きづらさを感じているのでしょうか…?
え~~~~~~~~~~~~~~~~~と。
え~~~~~~~~~~~~~~~~……………
🤤←
ワ、ワカラン………
いやいや、あのですね。
こいつはアレなんですよ。生きづらいという単語は使ったことがないものの多分にそういうのを含んだ諸々を考えるのを、20歳ちょいぐらいまでに、命まで削ってある程度やり切ってしまい、さすがにもういいというか^^;
そして、そのせいで、おそらく、
生きづらさにひたるセンサーがぶっ壊れている
…のです。ええ、とっくに。
麻痺してしまって何がなんだかわからない!
うわああ!ワカラナイ🤯(誰か止めろや)
人が無限の可能性に輝くべき青春期のほぼすべてを暗黒のうちに費やしたといっても過言ではなく、長きに亘り考えた諸々は、自分にとっては結局ほぼ無駄だった。まあ、一割ぐらいは精神修養になったところもあるけど、実に無意味な期間だったと捉えている。ただ、ある意味爽快にもなったんです。『はあ~~なんって無駄だったんだ!』って。
まあそれであらかた憑き物が落ちたというか、あと厭世的に考えすぎモードに入ってくるとキナ臭いな…と自覚するようになり、以降多少は加減できるようになっていった部分もあるかもしれません。
だから今、その時はできなかった人生を楽しむ気分を取り戻しているのさ🪄
*
筆者はそもそも、どこかしらに厭世的な面が潜んでるんだと思います^^;
そして、悪気はないにも関わらず、そんなにすぐには人と打ち解けない^^;(そうしてやろうとかはないのがポイントで、これは単なるデフォルト💧)
極めつけは、いわゆる“女性社会”にも“男性社会”にもさしたる関心がない。
ひとりで様々なことを考えてると、飽きることもあるけど幸せだったりも。
敢えて言うなら、このあたりが生きづらさ的なものに関連しがちかな?と。
うっすらとした虚無臭が漂うとすれば、それでかも?(まあ隠者だしね~)
自分の場合、若かりし頃に、進路云々よりも上記をいかに解決するかの方が今後の人生において生死を分ける大問題ではないかと思えて常軌を逸しそうになったわけですが、ほぼ同時期に家庭内の複雑化を経験したことにより、「それまで心安らぐ場所だったのが、思ってもみない火宅となるものだな…むしろ外界のほうがマシなんじゃないか?」という意識が芽生え、結果的に社会に漕ぎ出すのが促された気もしてます。
要は、家族や家庭のよさもわかるんだけど、赤の他人と過ごすほうが気楽という謎のバランスで成り立っているというか。
現実社会の筆者は、おそらく掴み所がないと思われてるんじゃないかな^^;
でもまあ、そんなに悪いやつでもないんだろうみたいな笑
自身の持ち物の何かに助けられているとすれば、学習能力が比較的高かったぐらいでしょうかね。
どこへ行っても大概はこんな感じなので、ジタバタしなくなっただけです。