本の記憶。 詩集『マルスの薔薇』
荘原照子という戦前の昭和十年代に活躍した女流詩人がいる。 一冊だけ『マルスの薔薇』という詩集を残している。マルスは火星。
詩の作風を見るとわかるが、完全に現実のリアリティを切り捨てて、架空の美意識の世界で時空を超越したような世界を描きだそうとしている。
戦前昭和の日中戦争が始まるころまでは、それなりに文化が成熟しようとしていた時代であり、詩作が若者たちの文化創造の中心的な場所であった時代である。この時代に詩人であることはおそらく、いまの人気ブロガーみたいなもので、時流の先端にあり、幸運というか幸福なことであったに違いない。ネットのなかに坂東里美さんという人が書いている『モダンガール』という、女流詩人についての連作評論がある。そのなかで荘原はこう書かれている。
荘原照子は「純粋詩の世界に於ける一年生としてこれから永眠の瞬間迄こつこつと歩ませて頂きたいと思ひます。」と述べている。「純粋詩」は、詩の中から詩以外の要素(思想・哲学・政治など)を排除し、純粋に詩的な要素のみで作られた詩を指す
純粋詩とは純粋に美意識だけで成立した詩、というような意味だろうか。 こんな作品もある。
【育つ夢】
エリカの髪に頬を寄せて、わたしは白い垣根に別れを告げた。
沙丘のその果てに夜の落ち葉がふるえているとき、
あなたのマントはどんなに長く地をはらって行ったらう。
けふわたしの指に唯二つ光っている外米。
どこか遠い星の蔭にいて、ああエリカ……君は
ぼろぼろと匂いこぼれる宝石をなほ吞んでいよう
少女の夢、と書いていいのだろうか。時代を超えてこころに迫るものがあり痛ましい思いが募る。荘原は反戦を公言して、戦争中に軍部に目を付けられ結核を患い、憲兵に追われたため身を隠して行方不明となり、詩壇から忘れ去られる。死んだと思われていた彼女が姿を現すのは三十年近くの歳月が流れた後のことで、昭和四十年代に入ってから。鳥取で貧しく暮らしていた。その後、中央の詩壇に復帰することなく、一冊だけ、夢幻のような詩集を残して孤独のうちに没した。ヴェルレーヌやランボーや中原中也、立原道造などと並んで、詩神に自分の最も美しい部分を捧げて非運に生きた詩人の仲間に入れてもらえるような人生を過ごした詩人だと思う。